甘やかす

 誤解のないように、少し、ことわっておかなければならないようなので、追加します。

「甘やかす」というのは、決して子の欲求をすべて否定して、親の趣味で何かを子供に与えるという意味ではありま
せん。これは、子供のPET化といい、
溺愛とも呼ばれている行為で、かなり危険があるので、充分注意をしましょう。
例えば、こどもが小石をひろって遊びたがってるのに、小石ではみっともないのでと、小さいボールを買い与えたの
では、子供は満足しないのです。勿論、小石で遊ばないようにと、飴や食べ物で
気をそらせるのも、考えものです。
本当の意味での、というか、私が「甘やかす」という表現を使っているのは、あくまでも「子供の要求を全面的に受け
入れる」という意味です。

これは

頭で、考えているより、ずっと難しい事なのです。特に口唇期から、肛門期にかけては、まだ「おもいやり」というのは
芽生えてきていません。その為
「口唇期的欲求」を親にぶつけてきますから、まるで「たちのわるいおやじ」みたいな
ものです。人使いがあらくおこりっぽく泣き虫で、なかなか手のかかるもので、思わず怒っておとなしくさせたくなって
しまうのですが、ここで脅しては「口唇期固着」がおこって、それこそ「たちのわるいおやじ」になってしまうと考えてい
ます。

ですから

ほとんどの人は、本当に甘やかしてなんか育てていないと思っているのです。特に口唇期に固着している、男性は
自分の
妻に母親を転移しているのが普通ですから、母親が子供にかかりっきりだと、なんだかんだと子から母親
を引き離そうとするし、無視しつづけると、おもてで浮気はするし、母親の心労は増えるばかりです。気持ちに余裕
がなくなると、どうしても子供をどなりつけて、おとなしくさせたい衝動にかられますが、ここが我慢のしどころです。

とはいえ

 現代社会はまだまだ「男の論理」の、まかり通っている社会です。母親を取り巻く環境は子を甘やかす事をゆるさ
ない状況、は続いています。私の知っている「一切のしつけをされずに育った人」の母親は「誰がなんと言おうと本能
のおもむくままに育てた」と言っているそうですが、これにはかなりの強い意思と、それなりの環境が必要になるの
です。特に環境では、夫の思想が最も大きな要因を占めていると私は考えています。しかし最近の子育て(最近に
限らないのかも知れませんが)の状況は、夫は口出しはするが手伝わない。それでいて、うまくいけば自分の手柄
うまくいかなければ、母親のせい。みたいな状況で母親の負担は増すばかりで、
必ずしも環境が整備されていると
はかぎらない
ように観察しています。

ですから

無理はしないでください。私も「急ごう」とは言っていませんし、思ってもいません。じっくり時間をかけるほうがいいで
しょう。ただ、力が支配する
社会の流れの分子運動のようなものが「母と子」なので、頭の中では出来るだけ「力ずく
で子供にいうことをきかせる」ことを、極力少なくしようと、考え続けていてもらいたいのです。現実には自分も力の
世界で育てられたので、行動を起こしてしまうかも知れませんそんな時も自分を責めないでください。自分を責める
というのも
常識の論理なのです。母が精神的に不安定だと子は置いてかれてしまうのです。勿論自分を責めてる自
分を責めるのもやめられたら、やめるようにしてもらいたいと思います。善悪の束縛からのがれられるのが、一番
必要なのですが・・・・・難しいですね。だから少しづつでいいんです。次は子供がもう少し・・・・と代を重ねるうちに
少しづつ人間が
「脅迫観念という鋳型」から解放されればと思っています。

脅迫観念とおもいやり

「おもいやり」はしつけで出来るものだ、という意見を聞いた事があり「???」してたのですが、あるとき、テレビで
3才位の子供をもつタレントが「うちの子が目がさめると、私を寝かしたまま、起こさないようにと、そっと戸を閉め
おばあちゃんの所に行ったのをみて、うれしくて、涙がでちゃった」と言うのをきいて。「はて?」
他人に対する「おもいやり」が生じるのは
エディプス期に異性親に恋をして「相手は自分をどう思っているんだろう
?」という疑問から、他人の感情を読む訓練が出来てからなので、普通は3歳位では、まだないのです
勿論、かのタレントの子供はもしかしたら、早熟で、思いやりが生じたのかもしれませんので、断定は出来ませんが
普通この時期にあたかも「おもいやり」が生じたように見えるのはほとんどの場合「脅迫観念」です。

すなわち

目がさめて、母親がまだ寝てれば、当然起こそうとするのが、この時期の子供なのですが。母親がそのたびに機嫌
が悪く、おこりちらしていれば、だんだん怖くなって、おこせなくなる。というのが脅迫観念なのです。
なにも、このような場合だけでなく、脅迫観念で、あたかも「おもいやり」があるように、しつけると、子供には、沢山
のes
「エス」が芽生えて、かえって危険です。ですから、どんなに歯がゆくとも、自然に「おもいやり」が生じるのを
待ってもらいたいのです。

だから

しつけで、おもいやりを作るというのは、真っ赤なうそです。

子供の心労を増やすだけで、親の自己満足以外のなにものでもありません。将来とんでもないしっぺがえしがく
るかもしれません。充分注意してください。

理論と法律

 数学の分野に論理学というのがあります。この論理学で扱える命題は厳密に集合を作れるものに限られていま
す。すなわち定義の出来るものです。そうでないと、論理体系は必ず矛盾をおこすのです。ですから「善悪」のような
集合を作れないものを論理に導入すると、必ず矛盾が生じます

やはり昔

 人を殺し合うような争いの中「これでは人類そのものが絶滅してしまう」と考えた人達が「約束事」を取り決めたの
ではないか、と考えています。しかし「憎しみ」という感情は潜在的に「恐怖」を抱えてしまいますから。恐怖心が頂点
に達すると、どんな約束事があろうとも、約束をやぶってしまう者が出てきちゃうのだと思います。だから、その恐
怖心を上回る恐怖心で、約束事を守らせる「罰」が出来たのだと思います。これが発展したのが法律だと私は考え
ているのです。

ですから

人間が絶滅種である限り、法律をなくす事などとうてい出きる相談ではないのです。しかし法律は言い直せば「善悪
を最大のカテゴリーとした論理体系」なのです。これは当然のことながら内部矛盾を含む論理体系なのです。です
から、どんなに法律を変更しても、基本的に「矛盾」から脱却する事は不可能です。最終的には「力」に頼る以外に
方法はなくなってしまいます。これが絶滅種が力の理論に頼らざるを得ない事情だと考えているのです。

法治国家

の限界について、私は言っているのです。子育ての段階で先祖の「憎しみ」が子に伝授されて行きます。だから殺
人者といえども遠い昔の先祖の「復讐」をしているにすぎないのだと思っています。これは
誰が悪いとか、誰のせい
とかいう次元の問題ではないのです。原因は遠い昔にさかのぼる以外にありません。どんなに力で抑えてもこの
「復讐心」は消去出来ずにどこかで顔をのぞかせるのだと思います。法律を強化するという意味は「恐怖心」をさら
に増加させるという意味で、人々の臆病さは増すばかりです。臆病になればなるほど「うそ」が自然に口をついて
出てしまいます。これは動物が天敵から身を守る「擬態」とまったく同じもので、
ほんとうに「自然」なのです。だから
法律を強化すればするほど国全体が「うそつき村」になってしまうのです。これでは人間同志の「信頼関係」なんて
構築する事など、とうてい出来るものではありません。

だから

少しづつでもいいのですが、法律が段々少なくなって行く方が好ましい事だと考えています。しかし、自我喪失してい
る人間は(
決して悪い人とはとらえないで下さい)どうしても、自分の生命を維持する為に、法律の穴や矛盾点を見
つけだしたり、法律のおよばない治外法権を作ろうとしたり、守秘義務で守られた、見つからない場所をさがしたり
して、エスの行動化は避けられないのです。
これも自然の営みなのです。それをさらに法律という論理で規制しよう
とすればするほど、世の中は息づまるものに変貌していってしまうのです。

それは

自我喪失している人間が多ければ多いほど、国全体が衰退していく事を意味しています。「きびしいしつけ」で権力
を握ることを考えている人達には、そこまで深く考える事は出来ません。いかに早く自分だけが、または、自分の周
囲だけが、安全な場所にいけるのか?という事で頭はいっぱいなのです。それは
妄想による恐怖心が彼等をかり
たてるのですが、彼等にとっては妄想ではなく確たる信念なので、説得はまったく無力です。そこには厳然として言
葉の限界を見ることができるでしょう。

例えば

排他的集団を形成している人達(恐怖心から、共通の敵を作ることで、共通の価値観を共有して安心感にひたって
いる人達)に「排他的なことはよくないよ」
(排他的=悪)と説得しようとしたとしましょう。そうすれば彼等は「そういう
貴方だって、私たちに対して排他的態度をとってるではありませんか」と反論してくるに違いないのです。

または。差別をしている人間(どこかで、淘汰の妄想があり、優秀な人間だけが生き残れ劣等な人間は淘汰される
と信じている為に、たえず自分は優秀であると確認しつづけなければ生きていけない人間)に「差別してはいけませ
んよ」
(差別=悪)と説得しようとすれば「そういう貴方だって、私を差別しているではありませんか」といってくるので
す。

また、いじめをしている人間(上から合理的いじめにあっているため、ストレスがたまり、弱いものをいじめていない
と精神的に不安定になってしまう人間)に「いじめはいけない事ですよ」
(いじめ=悪)と説得しようとすれば「そういう
あなただって、わたしをいじめているではありませんか」と言ってきます。何故なら、彼等にとって、いじめは生存に
かかわる、重大な作業だからです。それをやめろとは「お前はこの世から消えてなくなれ!」と言われているような
ものなのです。

要約すると

「善悪」とか「罪と罰」とかの観念で、社会問題を考えても、大きな壁にぶつかって、必ず限界がやってくる。そして
人類数千年の歴史で充分試行されて、もはやこれ以上は無理かもしれないという所に来ている様に思えるのです
いいかえれば「善悪」を基調にしたどんな意見も、もうすでに過去に誰かが言ってる事の繰り返しに過ぎなくなって
いると思われるのです。でも根本的な所はなんにも解決していないし今後も期待がもてないのではないでしょうか。

充分

説明になっているかどうかは、ちょっと自信はありませんが、この様な理由で、自我喪失してしまうような、子育ては
極力へらしていきたいと思っているのです。私の視点はあくまでも「どうしたら戦争をなくせるのか」にあったのです
が、最終的に「子育て」に行きついてしまいました。私は子育ての専門家でもないし子育ての現場を経験しているわ
けでもないので、もしかしたら、間違った事をいってるかもしれません。その時はどうぞ、遠慮なく反論をお聞かせく
ださい。

解りやすいという事

 どうやら、私の意見が私の意図する事とはちがう様に受けとめられてるかもしれないと感じ始めているのですが
勿論私の文章のつたなさが、最大の原因でしょうが。私は「しつけは有害だ!」と言っているわけではないのです。
ましてや「自我喪失してる人間はわるものだ!」とか「絶滅種をこの世から追放しよう!」とかいっているわけでは
ないのです。「わかりやすさ」という点では、この方がいいのかも知れませんが、全然ちがうのです。

こんな事を

 考えていたら「なにか」にぶちあたりました。どうやら、大部分の人は「良い事」なのか?「悪い事」なのか?とか
「優れている」事なのか?「劣っている」事なのか?とか「上」なのか?「下」なのか?といったカテゴリーわけをして
判断するように訓練付けられているようなのではないでしょうか?これを「価値観」と呼んでいる様にも見うけられま
す。ですから、自分のもっている「価値観」で「受け入れられるか?受け入れられないか?」を判断しているみたい
なのです。勿論「価値観」を持っているのが悪い事と言っているわけではありません。

ですから

 私の言いたい事は、この様な「価値観」そのものに、何かの「問題」がある、と言っているのですが「問題」といって
も「解決しなければならない、悪い事」という意味ではなく数学の「問題」みたいに「解があるなら、解いていきましょ
う」という意味の「問題」です。人間自身のこのような「問題」はどうしても「自分は良いのか?悪いのか?」という習
慣があると、とても解きにくい問題なのではないでしょうか?「そんな事を認めてしまえば自分を責めてしまって、と
ても苦しくなってしまう」と感じたからといって「だから、そんなものは無い!」と言ってしまえば、もう問題解決の糸口
を捨てたようなものになってしまうと思うのですが。このあたりが、人間を理解しようとする時最大の壁になって
いるようにも思えて来たのです。

すなわち

 自分にとって「苦しくない」ところだけで「問題」を解決しようとどうしてもしてしまう。他人の意見を聞いても少し苦し
くなってくると「そういうお前はどうなんだ!」とか、なんらかの文句をいいたくなったりするかもしれません。勿論悪い
事なわけではなく、そのような成育史を持っている以上避けられない人間の感情なわけなのですから、それはそ
れで、「ある」のです。しかしそれをなんとか脇によけておかないと、本当の意味での真理の追究も、建設的発展も
遠のいてしまうような、気がするのですが。どんなものでしょう?ですから、心のどこかで「他人より優れている」
事を追求している感情があって、いろんな情報を取り入れるとき「自分はどうなのか?」という目で情報をとり
いれようとすると「自分は優れていないかもしれない」と感じる部分は「わかりにくく」なってしまうのだと、思うのです。

そんなわけで

 ほとんどの「人間」は「善悪、優劣、上下」の感覚はあるわけだから、それはそれで潜在意識から表面に持ち上げ
て「あるものはある」とまず認めてしまいましょう。そうすれば自動的に「拒絶」する感情が薄らいで「問題」に本気で
取り組めるのではないでしょうか?勿論わたしもあります。60年に及ぶ私の人生のなかで「自我喪失」している人
間に時として「苦しめられ、傷つけられた」事も数かぎりなく「ある」わけですから、そのような人達に対する「うらみ」
や「にくしみ」みたいなものは厳然と存在しているわけです「いっこくもはやく、そんな人間をこの世から抹殺したい」
という感情も存在している事はいなめないでしょう。

しかし

 充分に理性的に「問題」をひもといていくと、彼等も「他人をくるしめたり、おとしめたり」しないと、生きていけない
ような「苦しみ」を抱えているのだと、理解していくうちに、むしろそのような「苦しみ」を人間に負わせる「なにか」の
ほうに目が向いていくわけです。彼等を「スポイルしたい」という感情があるかぎり「彼等のようにはなりたくない」と
いう感情が先行して「自分をより高めたい」といった幻想のとりこになってしまうのだと思われるのです。すなわち
攻撃したい感情を「潜在意識」に沈めているかぎり、自分にとって「都合の悪い」考えかたは「否定的」になってしまう
いいかえれば「真実」を見る眼が曇ってしまう可能性がおおきくなってしまうのではないかと考えています。もちろん
「悪い事」なわけではなく。そういう事実があるかもしれないという事を「認めていく」という事がなにかを「理解」する
上で必要なのではないか?と考えているわけです。

なんだか

とりとめのない文章になってしまったかも知れませんが、なんとか伝わる事を願っています。このあたりを、充分考
慮にいれて、次に進んでください。

 
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