子育て

 
   子育てに関しては、あまり明言は避けたいと思っていたのですが、やはりここがいろんな誤解や思いこみをなくす
為にも重要なところのようにも思えてきたので、私がもっている情報の範囲で、私の推測をまじえて書いていきたい
思います。なんども念をおしますが、私は子育ての専門家ではないので、あくまでも人間の心の構造の研究から私
が推測したものにすぎません。これを読んでいただいた人達といっしょに考えていこうというのが私の立場であり
その為の、情報の提供と考えてください。皆さんの活発な意見を待っています。

出産

動物の母親が、どの様にして子供(赤ちゃん)に言葉なしで「天敵」を教えるのか?というのが発想の出発点でし
た。そこで、私がだした結論は「フェロモン説」です。人間の赤ちゃんも匂いにとても敏感なことは良く知られているこ
とです。自分の母親の乳と他の母親の乳の匂いの違いをかぎ分けるのです。フェロモンの受容器官は「鼻」ですの
で、大人になってすっかり退化してしまう「匂い」に関しては、赤ちゃんの方がずっと優れているようです。こんな事か
ら、「天敵認識」を考えると、母親の「恐怖心」(ホルモンとしてはアドレナリンまたはエピネフリン)から生じる「
恐怖
フェロモン(まだ発見されているわけではない私の仮説です)」が赤ちゃんに緊張をあたえ「天敵認識」をさせるの
ではないか?と考えているわけです。

ですから

 出産時にたとえ潜在的であろうとも母親が「恐怖心」(意識では、不安とか緊張とか時には怒り)を持てば、そこに
居合せた「動くもの」を赤ちゃんは「天敵」と認識してしまうのではないか?と考えたわけです。という事は、妊産婦に
無用の刺激を与える事は、赤ちゃんに「人間を天敵」と認識させてしまう可能性が非常に高くなるのではないか?と
思われるのです。現実的には今後沢山の観察や研究がすすまなければ断定は出来ませんが、「ひとみしり」という
現象はこれに相当するのではないかとも思っています。「ひとみしり」はやがて直るというのが通説ですが、表面的
には、確かに直りますが、潜在的には「人間不信」の元になるかもしれません。勿論その後の母親の取り扱いにも
影響されるとおもいますので、必ず人間不信になると言っているわけではありません。

という事は

 出産時の妊産婦の取り扱いは充分神経を使ったものではなければならない様な気がします。動物園の出産では
飼育係りがとても気をつかって、妊婦の神経にさわらないように注意をするのが普通です。それにくらべ人間の出
産の、なんと
ずさんな事か!そうでなくても神経がたかぶっている妊婦に対して、機械的、事務的な扱いには恐怖
すら憶えます。特に医者や看護婦が「権威的」になっている場合は非常に危険なのではないか?と感じています。

私の知り合いの

 女性は、出産時にあまり痛がって大声をだしていたら、婦長さんにとても下品な言葉で権威的にたしなめられた
そうです。私の推測では、きっと不愉快な気持ちにさせられたと思いますし、それは「恐怖心」そのものなのだと
思います。一例だけで結論はだせませんが、勿論その子は「ひとみしり」です。私の目撃したものは、ある妊婦(私
の女房ではありません)がルンルン気分で赤ちゃんの着る物をテーブルの上に並べているのをみつけた看護婦が
ミトンという、赤ちゃんの手袋を発見して「こんなものを使っちゃいけません!赤ちゃんは手の感触が脳の成長に重
要なのですから!」と怒鳴っていました。いってる事は正しいのかもしれませんが「そんな言い方ってないんじゃない
の」というのが私の素直な感想でした。(勿論私が口をはさむような場面ではなかったので、黙っていましたが)
こんな、扱いを受けた妊婦の心情は想像してあまりあると思いますし、赤ちゃんに対する影響も少なくないと思って
います。

日本では

昔は自宅で産婆さんが出産の手伝いをしたものだし、時には気心のしれたご近所の方々が集まって、手伝ったり
したものです。しかし、最近は西洋の習慣が沢山入りこんで「近代的」という名の元に、ほとんどの出産は「病院」
で行われるのが普通になってきました。ですから産婦人科のお医者さんや看護婦さんには、どうか、妊産婦をあま
り刺激しないように気を使ってもらいたいものです。もしかしたら、
社会不安の遠因になっているかもしれません

乳児期

 乳児期の育てかたで私が一番心配しているのは「ベビーベット」です。「自立心を育てる」という目的らしいのです
が「感情の固着」という面から見ると自立心を育てる事はむしろ母親との共生関係を密にして「安心感」を充分受け
入れた方が、成長してからの「自立」に向かうと思われるのです。前の昔の王様の話にも出てきましたが、母親との
密着度が少なければ少ないほど、子供の中には「残虐性」が芽生えてくるようです。この事情は「恐怖心」が大きけ
れば大きいほど、自主的行動が出来にくくなっていくのです。すなわち「怖くて手がだせない」「怖さが先だって、他
の事が考えられない」という状況になってしまうのです。そこで自然は「怒り」という感情を用意しているわけで、自主
的行動はほとんど「怒り」によってのみ行動出来るようになっているのでしょう。これがes(エス)だと思っているわけ
です。すなわち、母親との密接な共生関係を経験しないと「恐怖心」が解消されずに「怒り」がどんどん大きくなって、
その先にあるものが「残虐性」だと、私は考えています。

残虐性を

 かかえたまま、成長すると、どうしても「暴れもの」になってしまうでしょう。そうなれば、その先の子育てには恫喝
をつかった
「しつけ」が必要になってしまうと思われます。しかし「しつけ」はむしろ「恐怖心」を増長させるものなので
自我の成長をとめ、親に従順なといえば聞こえがいいのですが、目上の「命令」なしで行動出来ない人間が出来て
しまうのだ、と考えています。このように育てられた子供は「誰かの指示」や「目上の監視下」が必要になり、自主的
にはなんにも出来ない人間になってしまうのだろうと思われるのです。そして「目上(両親も含め)」の目のとどかな
いと確信を持った所ではesが行動化して、社会的に少なからず混乱をもたらす原因になっている、と私は結論付け
ています。たとえば「いじめ」等がこの良い例ではないでしょうか。
「いじめっ子」の両親は私の観察している範囲で
は必ず
「権威的」なのです

さらに

 目上の命令がまったくなくなってしまうような、状況すなわち自分で考え行動しなければならないような状況にたた
され、しかも反社会的行動にすら「恐怖心」を植え付けられると「精神的病」になるのではないか、と考えています。
これらの状況になってしまっても「他人のやさしさ」を受け入れられる位の精神状況なら、
自己修復が可能になり、
なんとか、社会生活が出来るようになると思いますが、どうやら「母親からのやさしさ」をある程度受けていないと、
他人からの「やさしさ」を受け入れられなくなってしまうようなのです。すなわち絶対
「母親でなければならないなに
か」があるように観察しています。これが「親離れ、子離れ」とも密接な関係があるようでもあります。

だからと言って

 実際に「ベビーベット」で子育てを終えている人を責める気持ちがあるわけではありません。人間の行動の大部分
は自分が親によって取り扱われた感覚が基本です。そして理性的な部分すらも、自分が取り入れた「情報」以上の
考えも発生しないので
「誤った行動」というのは存在しないのです。「誰が悪い」とか「誰のせいか」という問題ではな
いのです。本質的問題をただ単に追及してみる、そしてそれが新しい情報になれば、と思っているだけです。「責め
られている」という感覚は「自分を責める」というある意味ではとても苦しい状況に突入して「全てを否定したい」とい
う「感情」を呼び起こしてしまい、結局「なにもわからずじまい」に終わらせ「自分の今の状況はそれほど悪くはない、
だから、これ以上自分の心をかき乱さないでくれ」という感覚になってしまうかもしれません。

この感覚が

もしかしたら、正しいかもしれない、と思われる、幾多の情報を闇にほうむり、結局問題の根本的解決を遅らせ、い
つまでも、人間社会の幾つもの悲劇を未然にふせぐ事を遅らせていると私は観察しているのです。「自分が苦しい
から、そんな事はない」というのだけはなんとか、避けて貰いたい。これが私の願いです。出来るだけ冷静にもの事
の本質をみきわめ、問題の根本的解決に向かいたい。そして出来るだけすみやかに(といっても早急にという意味
ではありません)人類の悲劇を未然にふせぎたい、と思っています。

誰かが悪い為に

悲劇が起こっているわけではない、と私は思っています。人類数千年の歴史が作り出した「必然」ではないか、と思
っているわけで、それらにストップをかける事が可能なら、歴史の流れを変えてみたい、と思っているのです。です
から、どうか「冷静に」考察をすすめてみてください。そしてなんらかの本質が見えてきたら、それでは「どうすればい
いのだろうか」という部分が見えてくるのではないかと、思っています。

話が少し

横道にそれたようですので、話を戻します。以上のような考えかたから、乳児期は母親と赤ちゃんができるだけ密
接になっているほうが良いのではないか、と考えられるのです。ですからベビーベットで別々に寝るのではなく、母
親と添い寝する方が良いと思っています。日本では古来「川の字」に寝るという事がありました。父親と母親が真中
に子供を挟んで寝るという意味です。家族円満の象徴のような言葉ですが、貧乏だったせいもあるかもしれません
親子が密接に生活し続けることにより、赤ちゃんの「恐怖心」はだんだんやわらぎ、それこそ「個」として
[自立心」
生じるものだ、と考えています。

この時期

「だきぐせ」という言葉も良く聞きます。時には「赤ちゃんは泣くのが運動だ」等という言葉も耳にします。しかし私の
考えでは赤ちゃんが泣くのは大人の感性からは想像もつかないくらい「怖い」なにかがあるのだと思っています。で
すから、抱き上げてあやされる事で「恐怖心」がやわらぎ少しずつ、抱かれなくても大丈夫になっていくのだと思って
います。確かに「ダッコ」の要求は4〜5才位までつづき「だきぐせ」がついちゃった様にもみえるかも知れませんが
安心感があり自分のしたい事をみつければ「抱かれる事」をむしろいやがります。反面「だきぐせ」をおそれて、だ
かない様に気をつけると、確かにあまり「ダッコ」の要求はしなくなりますが、これは「脅迫観念」ですので、「おとなし
いいこ」にはなっても、
思春期以降に重大な問題が発生する可能性は大きいと思います。

母乳

の問題は、かなり個人的事情があるので、難しいかもしれません。しかし最低限「機械的、事務的」授乳だけはさけ
てほしいと思います。「何時間おき」というのはあくまでも「めやす」と考えてください。母親の乳首をしゃぶり、ちぶさ
をまさぐる事は「安心感」の象徴だと思います。ミルクに換えるのも、ある程度交互にあたえながら、自然に移項で
きればいいと思います。もっとも、赤ちゃんは歯が生えてくると、乳首を噛むことがあり、それどころか、必ず噛むの
です。あれは痛そうです。他の動物ではそんな事はなさそうなのに、人間だけは何故でしょう?今のところよくわか
っていません。哺乳瓶に移行したほうがよさそうです。哺乳瓶の吸い口も噛んですぐ駄目にしてしまう一時期がある
ようです。

離乳

に関しても、常識や親の都合でおこなうのではなく。自然に離れるのが理想でしょう。勿論「そんな事いっていられな
い」事情も個々にはあると思われますので「絶対的」という意味ではありません。哺乳動物は成長すると途中から
体質が変わって、ミルクを受けつけなくなる体質になるのが普通です。動物達はそれで自然に乳離れしているわけ
ですから、色々なものを食べさせて、いるうちに、ミルクが必ずしも「おいしくない」ものになるかもしれません。よくか
なり、大きくなっても母親の「オッパイ」を欲しがる子供もいますが、幼少時に無理をして、
権威的に禁止した結果
はないかと、私は思っています。人間は言葉を使う為に言葉による情報が多すぎて、かえって混乱する事があるか
とも、思いますが、周囲の雑音にまどわされないようにしてもらいたいと思います。

睡眠

の問題も結構大変な所があります。何故なら人間の体内時計の一日は25時間だからです。成長するにしたがって
目からの明るさ、暗さの情報が入ってきて、始めて、24時間周期が固定するらしいのですが、こんにちの様に照明
が発達してしまうと、それすらも難しい問題になってしまうようです。私も始めのうちは、ダッコしたりして、時間に寝
かしつけるように頑張ったのですが、大きくなるにつれて、だましがきかなくなってくるのです。また「夜泣き」という
現象がありますが、私の場合に限っていえば、子供が夜、眼をさまして、泣いているのを見ていたら、どうも暗いの
が怖いらしいと感じたので、試しに電気をつけてみたら、すっかり安心して寝てしまいました。その後なんどか寝る
たびに電気を消していたのですが、眼をさますたびに泣かれるので、電気をつけっぱなしにして、寝ることにしたら
「夜泣き」はまったくおこりませんでした。しかしあかるい所で寝るのは大人には少しきつかった。

そんなわけで

我家では、昼夜を問わず電気はつけっぱなしだったのですが、そうすると子供は、みごとに25時間周期で寝起きを
してしまいます。(つきあうのが大変だ〜)社会一般の周期にあわないので「保育園」には入れられません。こんな
調子で大丈夫なのか?と多少は不安がないわけでもありませんが、思春期から青年期にかけてのいわゆる「昼夜
逆転現象」というのは、どうも、幼児期に無理やり寝かされたり、無理に起こされたりしたところに原因があるのでは
ないか?と考えているので、このまま進めています。(ちなみに2000年3月31日で4才です)
「強制されると、必ず反
発が芽生える」これは人間の心理の公式のようなものです。しかも「禁止されているものは、楽しい」というスパイス
まで、ついてしまいます。ですから「昼夜逆転」は親が禁止をとけば、少しづつかもしれませんが、直る可能性は強
いと思われます。

私も

 どちらかといえば「昼夜逆転」タイプだったのですが、毎朝めざましと格闘しながら、仕事をしていました。まだ人間
の体内時計が25時間だとは知らなかった時代に(15年位前)「なんでだろう?昼夜逆転といっても、地球は丸いの
で、時差がかならずあって、どこかの国には自分と同じ時間に寝起きしても早寝早起きになる地域も必ずあるはず
だろう?もし昼夜逆転の人がアメリカにいったら時差の関係で普通になるかもしれないが、もしかしたら、時が経つ
につれて、やっぱり昼夜逆転になるのではないだろうか?」と考えたわけです。当時それなりに環境があったので、
ためしに「眠くなったら寝て、おきたくなったら、おきる」という事を繰り返してみました。約1年くらい、寝る時間と起き
る時間が少しずつずれていき、時には早寝早起きになったり、まったく逆転したり、世の中とまったく隔離したような
生活をしていました。そのときなんとなく「人間の生活周期は25時間前後ではないか?」と感じていたのです。その
あとは、不思議なくらい、寝る時間も起きる時間も自分の意志でコントロール出来るようになったのです。いまでは
明日は何時に起きよう、と決めて寝ると必ずめざましなしでその時間に起きれます。これだけで結論を出すのは
無謀なので、結論をだすつもりはありませんが、乳幼児期には無理に寝かせたり、無理に起こしたりしない方が
良いような気がしています。この時は大変でも、将来的に「睡眠障害」をおこさなくなるのではないか、と感じていま
す。

幼児期

 立ちあがって、歩けるようになると、色々なものに興味を抱きます。必ずおもちゃで遊んでくれるとは限りません。
それどころか、大人のまねをしたがるので、いろんな道具はたいてい興味を持ってしまいます。また持って生まれた
性格とか、出産時の取り扱い、乳児期の両親の接しかたなどで、かなり違いが出てきますので、あまり一般論はい
えないとは思いますが、この時期は子供が外界を認識し、外界と自分との関係を
試行錯誤する時代と言えるでしょ
う。ですから大人からみたらただの「いたずら」にしか見えないものでも、本人にとっては今後人生をやっていくうえ
で、
重要な基礎知識を身につける時代と言えると思います。

まぁそれはそれは

信じがたいほどアクティブです。親が大事にしているものなんか、おかまいなしですから。身体に危険のあるものや
命にかかわるものは、これはどうあっても、禁止しなければいけないのは当然ですが、
ある程度は目をつぶる必要
があるかもしれません。その為には、親が子を設ける前に充分自己修復をしておいてほしいなぁ、とかも思います。
親のこだわりや、親自身が子供時代を充分消化しきれていないと、どうしても子供に対する「ねたみ」が生じてしま
うように、観察しています。やはり心理学の公式みたいなものには「自分が抑えているものを見たとき怒りが生じ
る」というのがあります。いいかえれば
「怒りとは自分の潜在意識」とも言えるのです(あんまり認めたくな〜〜い♪)
通常の人間関係では相手の強さとか、受動的攻撃みたいなもので「怒り」が出ても、抑えたりします。(これがストレ
スの原因ですが)ところが、相手が自分の子供となると、外で抑えてた分、強烈に爆発してしまうことがあります。

まぁ

多少はしょうがないでしょう。子が大きくなって自己修復をするとき認めていく事にして、大目にみてもらいましょう。
ほとんどの人間は、どうやら母親に対して「自分の育てかた」について不満を持っているようです。この「不満」が
子供に投影されて「子供に不満をもたれまい」と子を恐れる事があるようです。それは「良い母親」になろうという
こだわりを生じさせ、どこかで
完璧な母親を模索して、苦しい状態になって行くようにも見えます。その母親の苦しみ
は子供の心を悩ませるようです。ですから、理想的には、出産前に
「母親に対する不満」が解消されていれば良い
のですが、これが又、信じられないくらい難しいのです。「もう親の事なんかなんとも思っていないよ」なんて言ってる
人でも、潜在意識にはしっかり入っていて、それが「子育て」の時に行動に現れちゃうんです。だから、潜在意識を
掘り下げ「母親にたいする憎しみ」を意識にあげて、それから
「あぁ、彼女もせいいっぱいだったんだよなぁ、当時の
環境やなんかをいろいろ考えに入れれば、わたしをあんな風に扱う以外に方法はなかったんだよなぁ・・・」と少し
ずつ
「許していく」事が必要になっていくのです。でもこんな事普通は難しすぎてあんまり出来る話ではないので。自
己修復といって「やりたい事をある程度自分が納得するまで徹底的に行動する」事をしておけば、他人がなにやっ
てても
「多少はむかつくけど、めくじらたてて、さわぎたてるほどの問題じゃぁないよな」位の心のゆとりが出てくるは
ずです。そうなれば、たとえ子供が、床に水をまこうが、大事な本をやぶこうが、たんすのひきだしをあけて綺麗に
たたんだ衣類を全部ひっぱりだそうが、大好きな大切にしていたCDを全部ひっぱりだして、おもちゃにしようが、裁
縫箱ひっくりかえして糸をどんどんひっぱりだそうが、ピアノに釘を打ち付け様が(うえ〜〜ん)
「子の成長にはかえ
れない」と思って、ぶちぶち文句はいうものの、それほどヒステリックになって子を脅かす事もしなくてすむかもしれ
ません。

破壊と創造

これは、切っても切れないなかだと、私は思っています。私の個人的持論ですが、破壊を経験していない人間には
創造力は育たないと思っています。人間という動物は本質的には創造的生き物なのではないでしょうか。この創造
力はそのまま、人間の生きる力になっているように観察しています。しかし、ここで(幼児期)破壊を徹底的に拒絶
された場合、創造性が育たず、大きくなってから、むしょうにいらいらするのではないか?いらいらとは、結局創造
性の欠如した、自分に対する攻撃ではないか、とまで考えています。

この時期

特筆しておきたいことは、乳児期から幼児期の初期まで、親のいう事きく良い子に育て様と、口やかましくしていると
なにやら、子供はだんだん反抗的になり、
乱暴になってくると思われるのです。そんなとき、さらなる罰で抑えつける
事が出来れば「自我喪失」に向かわせる事が可能になって、権力機構に繰りこませる事が出来れば、とりあえずは
平穏無事でいられるかも知れません。しかし、ここで
抑えこみに失敗すると、かなり深刻な状況になるかもしれませ
ん。「子を受け入れる」というのは「子の欲求を出来るだけきいてあげる」という事ですが、子の最初の意志表示で
聞いてやらないと、段々子のテンションはあがってきて、ついには聞かなければならない状況にまで陥ることが良く
あります。ときどきは、こんな事もあっても良いとは思いますが「しつけをしなきゃ」とか
「我慢を教えなければ」という
脅迫観念に束縛されていると、いつでも最後にしぶしぶ「子のいうことをきく」という状況になってしまうかもしれませ
ん。そうすると、子の内界には「親はおどせば、いう事をきく」という情報がインプットされさらに
「親はおどかさなけれ
いう事をきかない」まで発達すると、ほとんどの他人に親を転移して反社会的行動をおこす危険性が増すのだろう
と思っています。

こんな

状況を、人は「甘やかしたから」と表現しているのではないかと思います。母親も「自分が甘やかしたから」と思って
しまうかもしれません。また「おばぁちゃんが甘やかしたから」とか、
原因を「甘やかし」に求め様としてしまいます
「甘やかした」のではなく
「脅迫に屈した」のです。これは「甘え」と区別してください。原因は「我慢を教えるべき」とい
う「常識」が人間の心を荒らしてしまったのだ、と私は主張します。また、この時期あまりにも我が子が手がつけられ
なくなって「もう勝手にしなさい」とばかりほっぽってしまう、それでいながら文句は絶えず言い続け「一切の子の行動
を受け入れない」状況になってしまう母親も見られます。社会一般では
「放任主義」と呼んだりしていますが「主義」と
呼べるような、確たる
親の意志によるものではない、と思います。

確かに

両親が「我慢を教えなければならない」という脅迫観念を持っている場合、この時期「抑えこみ」に成功するか失敗
するかで、
劇的な違いが生じるものと思われます。(成功しても、思春期にもう一回現れます)この現象をして一般
的発想での犯罪者に対するコメントが「甘やかされて育ったから」となるのではないかと、考えました。しかし、これ
はあまりにも表面的すぎると思います。暴れている子供達の欲求はただ一つ「母親に受け入れられたい」だけだと
私は考えています。しかし実際には母親は脅迫観念にがんじがらめになっているため「受け入れる」ゆとりがない
のが普通です。特に母親は「自分が甘やかしたのがいけないんだ」と自分を責め、ますますゆとりを失っていくよう
にも見え、周囲も深くものごとを見る目があるわけではなく「母親があまやかしたから」という結論をうのみにしてし
まうのではないでしょうか。

子鳴きには逆らえない

 これが、哺乳動物の母親の本能です。ですから、抑えこみに成功する母親より抑えこめなかった母親のほうがず
っと「動物的」なのです。「動物的」という意味は、それだけ
「母性本能」が出ているという意味です。人間がすっかり
「動物性」を取り戻す事が出来れば「子育て」に悩むこともなく「子育て」のマニュアルも必要なくなるでしょう。それが
私の主張なのです。乳幼児の時代に沢山の自己主張が受け入れられ「自分は生きていけるんだ」という安心感と
自信が身についた子供は親に対する
「基本的信頼」が生じて、個としての成長が促進され、自我(ego)が本来の
能力を発揮出来るものと、考えています。この本来の能力というのが必ずしも社会に必要とされているものかどうか
とか、成功するとか、金持ちになれるといったような常識の範囲の話ではないかも知れません。

しかし

確実に人生に充実感を持てると思います。これが「甘やかして育て様」という私の提案なわけです。とはいえ幼児期
の子供の破壊は(乱暴という意味ではなく)本当に大変なものがあり、禁止すると、金切り声をあげて抗議します。
一旦、彼等に興味を持たれてしまったら、もうなにもかも使い物にならなくなってしまうだろう事は覚悟が必要です。
ですから、本当に重要と思われるものは、彼等の目につかない所に厳重に保管しておきましょう。高い場所だけで
は不充分です。見つかったら「とれ!」と親に必死で命令してきます。勿論時には、本気で禁止しなければならない
事もあります、そんな時はダッコしてあやしたり、涙をふいてやったり、子供に「誠意」を感じさせる必要があるみた
いです。

近代社会では

テレビのコマーシャルの影響も無視できないし、外に出れば、子供が興味を引きそうなものばかりあるし。結構大
変です。ただ、小さい内は「値段」までは考えられないので、この時期のうちに「固着」を起こさないよう、出きるだけ
買ってあげたほうが、良い様な気がしています。「固着」をおこして、大きくなってから「高価なもの」ばかりほしがら
れては、かえって出費が多くなってしまうのじゃぁないかと、考えています。

そんなわけで

親が子の能力を信じ子の感情を大切にすれば、子は親を信じる事が出来て、安心感が生じる、それが「基本的信
頼」と呼ばれるものだろう、と考えています。勿論ここでいう「能力」とは知識とか知恵ばかりではなく「おもいやり」と
か「社会性」とか人間が一生社会生活をしながら生きていく上に重要な能力も含めています。すなわち「親が教えね
ばならない」ものとは戦争で人間を憎んだり、殺したりと、もともとの本能にはない知識の事だと、私は思っていま
す。すなわち、大切な能力はむしろ親が人工的に手を加えなければ、自然に成長していくものだ、と考えているわ
けです。ですから

「我慢を教えねばならない」というのは「迷信」

であると確信しています。「人間の欲望には際限がない」という迷信から出発している、これらの常識は母親に多大
な負担をかけ、そのうえ人間社会をどんどん混乱に落としいれる元凶だとまで明言してしまいます。

この脅迫観念だけはなんとかしたいものです。

追記

多少、考えがまとまったので、追加します。(つぎはぎだらけになりそう (;^_^A )(5/5)

私の考えでの子育てでの理想的姿は「本当の肉体的危険を回避する目的以外は親が子の感情(欲求)を全面的
に受け入れる事」だと思っています。しかし現実的には、親もその親に必ずしも受け入れられていないので、かなり
難しい事になりそうです。ですから「
子の感情を何処まで受け入れられるか?親の感情をどこまで子に受け入れさ
せるか?
」のしのぎあいになりそうです。しかもこの決定権は親が全権をにぎっているわけです。
しかも、困った事に親が「自我喪失」している場合は「自我境界」が薄弱なのが普通なので、どれが自分の感情な
のかどれが子供の感情なのかを判別出来ない事があるのです。そんな場合「この子はきっと綺麗な着物が着たい
に違いない」とか「今は安いおもちゃより、高いおもちゃが欲しいにちがいない」とか思いこんで溺愛に傾いてしまう
可能性が大きいのです。

ですから

やはり「自己修復」が最優先される方が大切だと思います。「いけない事」と自分が感じても、せっかく行動をおこし
たのなら、合理化をつくらず、幻想と戦って、無条件に「悪い事ではない」と思えるようにしてください。そして、熱中
すること勧めます。勿論犯罪は控えてください。

 
     
 

「甘やかす」と「溺愛」の違い

 
 

戻る

表紙に戻る
     
動画