甘やかす

もう少し具体的に

 この、HPを立ち上げてから、そろそろ半年がすぎようとしています。(1999・8・20 up)
そのあいだ、掲示板やメールを通じて沢山の人とふれあい、沢山のお話をしながら、時には激論をかわし、私として
は大変な、勉強になりました。私といたしましては、当初、理解していただける方は皆無ではないかと心配していた
のですが、さいわいにも、たくさんの理解者をえて、たいへんこころ強く、幸せにかんじています。そんななか、もう
少し具体性をもたせたほうが、よりいっそうの理解が得られるのではないか、という思いにたちいたり、私が掲示板
でも書きこんでいたものを骨子に、まとめてUPしたいとおもいたったのです。(2000・2・17)

私が

 この分野(人間のこころの分野)に入るきっかけは、精神的病からです。私は短い期間ですが、学習塾をやって
いたことがあります。その時の一人の生徒が、「対人恐怖症になって、バスにものれない」と言い出したのが始まり
です。彼女の話の中には、同じ高校で、かなりの人が精神的病で学校を中退していく、また、保健室にはおかしな
事をいいだす人がかなりいる、等を聞いて。「????」から精神的病について、沢山の本を読む事になりました。
そのうち、彼女の親友とも、懇意になり最近の学校の内情も、少しはわかるようになりました。私は40年位前に教師
をしたことがあるので、学校という閉ざされた特殊な環境はある程度は把握してはいました。

ですから

彼女たちの話を聞いても、それほどは驚かなかったのですが「あぁ、教育現場はついにこころがなくなってしまった
なぁ」というのが、素直な感想です。良い先生もいなくはないのですが、強大な力の前ではほとんど無力で、たぶん
職員会議でも無口にならざるをえないだろうと、私の経験から、推測しています。

彼女達も

親の強烈な、要望にこたえ「卒業証書をとるまでは」と頑張って、卒業したのですが。かの、友人は、卒業式をおえ
て家にかえるなり、卒業証書を。母親に投げつけ、やおら、制服を脱ぐと、制服をはさみで、ずたずたに切り裂いた
そうです。その後いくつか就職したのですが、長続きせずに、ついに精神的病を発病し、入院もしたりして、現在で
も病院通いの日々を過ごしています。

たぶん

学校関係者は「学校に問題があるのではなく、家庭に問題がある」ときっぱりと、言いきるでしょう。しかし何らかの
確証があるわけでもなく、感情的に断言してしまうだけなのです。なぜなら、彼等は深くものを考え、ものごとの
本質をとらえる能力が著しく欠如していて、頭にあるのは「だれのせいか」という事だけだからです。この「だれの
せい」と言うのが「罪責感」です。
「罪責感」が横行すると、もはや問題の解決は不可能です。

こんな背景のもと

 本質にせまっていったのですが、ついに、強大な怪物のようなものにぶつかってしまいました。その怪物とは
「戦争」です。そう、あの人が人を殺す事を、最良とするあの「戦争」です。たぶん、人類が道具を使うようになった
遠い遠いむかし、ちょっとしたいさかいから、あやまって、人を殺してしまった人がいたのでしょう。しかし、あやまり
とはいえ、殺された側の関係者には深い憎悪が生じたに違いありません。そして「かたきうち」が「かたきうちのかた
きうち」へと発展して、戦争の歴史が始まったものと思われます。そして、この長いながい戦争の歴史は男性優位の
社会をうみ出し、たくさんの「常識」がつくられ、無能化教育のもと、この常識には一切疑問をはさめないよう。常識
をうのみにするように、子育ての段階から、戦争に向いてる人間作りが主流になってしまったと思われるのです。

繰り返される

歴史には、こんな背景があったと考えています。アインシュタインが「人類が歴史から学べることは、人類は歴史
からなにも学んでいないという事だ」
という皮肉をいってる、背景がここにあると思います。歴史の繰り返されるパタ
ーンを類型化して私なりに考えてみますと。先ず沢山の犠牲者をだして、どちらかが、どちらかを負かしたとしましょ
う。負かされた側は当然「リベンジ」を試みるに違いないと思われます。勝った側は、勿論知らないわけもないと思い
ますので、征服者として、被征服者の上に君臨するのですがいつも、不安があるはずだと考えられるでしょう。そこ
でより強大になろうとすると思われます。、そしてさらに、まけた側の力を、弱くしようとするのではないでしょうか。
ですから戦争が終了しても、いつでも「臨戦体制」はとりつづけなければならないはずです。ですから征服側は、
被征服者側より搾取を続け、反乱の力をそぐと同時に、抗すべき事が不可能と思わせるほど強大な力を誇示し
続けなければならなくなってしまうのだ、と考えているのです。それはいつしか
習慣化され、虚飾になる事もまれ
ではないようにも思えます。また、そのため男の子はいつでも「強い」必要があるでしょう。しかしここでいう「強い」と
いう意味は、対人関係で、人をたえず従えることが出来るという意味なのです。何故なら「臨戦体制」だからです。
それは、
「力の支配」を意味すると思われます。「上が下を完全支配する」というのが、臨戦体制にとっての最良の
形と言えるのではないでしょうか?しかしこのように育てられた子供たちは、絶えず「下」を求める精神状態になって
しまうと、私は考えているのです。もし戦争があれば、敵を「下」と見下す事でそれなりの精神的安定は見出せる
ともいえるのですが、もし「戦争」がなければ、すなわち見下す相手が外部になければ、当然そのエネルギーは
自分の国内に向けられ
「弱い者」をいじめたり、差別したりする力に必然的になってしまうのだ、と私は考えてい
るのです。そして、沢山の人が自分の強さをたえず確認するようになり、社会はだんだん混乱していくのだと思って
います。

そんな混乱が

つづくと、国を統括してる人に非難が集まるような状態が生じて、支配者層は単純に「戦争でも始まれば万事解決
さ」と他民族を刺激するような、言動を繰り返し、相手から戦いをしかける様に画策するようになってきたりして、や
がてなにかの偶発事故のようなものをきっかけに、再び戦争は始まってしまうのではないでしょうか?そして勝者と
敗者がきまるまでつづくのだろうと思っています。
 こんな感じの歴史が人類数千年にわたって繰り返されてきた。と私は考えているのです。しかし、最近は、多少事
情が変わって来たように思われます。武器の発達と通信システムの発達によって、必ずしも「勝者」「敗者」が、決ま
らなくなってしまったように私は観察しています。いよいよ、戦争に終止符が打たれる時代が到来してきてると見
ています。しかし残念なことに人類数千年の歴史の重みは「常識」という形で人類に重くのしかかっている、と私は
観察したのです。 だから、平和が長くつづくと、強者に富が独占され、世の中は犯罪がふえ、混乱した社会が
自動的に出来てしまう、と私はみています。すなわち、戦争のおとし子ともいうべき、
慣習と常識にしばられた社会
は再び戦争をしなければ収集がつかなくなる社会状況が、
自然に出来てしまうのだと私は結論づけてい
るのです。

それは

 子育てから、始まっていると私は私なりの研究結果から結論づけました。ですから昔ながらの子育てや戦争を好
む民族の子育てを参考にしてしまえば、戦争に向く人間しか育てられないと考えています。
最近テレビをなにげなく見ていたら、昔の王様が「母親に一切ふれさせずに人間を育てたら、どんな人間が出来る
のだろう」という実験をした話がでてきました。私は母ねこが子育て放棄をするといくら、人間がミルクをやっても
育たず死んでしまうのを知っていたので「えっ!育つの?死んじゃうんじゃないの?」と興味を持って見ていたら
やっぱり全員死んでしまったそうです。テレビの解説では「実験」と言っていましたが、この王様もしくは側近は、そ
こそこ考察力や観察力にすぐれていたのだと思います。だから、たぶん
「感情がなく、冷酷無比、残虐それでいて、
王の命令には無条件に従う」そんなロボット戦士を作ろうと思ったのではないかと、考えています。

ですから母親の

ぬくもりややさしさが、精神面だけでなく、肉体的細胞の生命力にとっても重大な因子であろうと、私は考えています。
人間の感情を育て、考察力を育てるのは母親の愛情以外にはありえない(緊急時には母親でなくとも良いかとも思
いますが)と考えているのです。ところが、戦争という怪物は、感受性にとみやさしいこころをもった人間と、広く深く
多面的にものごとが考えられる人間を恐れます。だから、
怪物「常識」という手段をつかって母親が出来るだけ
早い段階で、
母親をやめ調教師になることを強烈におしすすめるのです。しかし、もし母親が幾多の常識をも、もの
ともせず、子供を感情のおもむくままに、甘やかして育てたら、実はとても感受性が豊かで、観察力、考察力ともに
優れた子供が出来てしまうのです。彼等は、感受性にとみ、やさしい心を持ってしまうがゆえに、争いや戦いには不
向きです。まして、人など殺せないのです。自分が他人を傷つけると、自分が痛くなっちゃうのです。観察力や考察
力が優れるという事は他人のうそが、すぐにみやぶれて、しまうのです。このような人を現在では「弱い人間」と呼
びます。時々「僕は強くなった」と言う人を見かけますが私の見た目では「強い弱い」ではなく「感受性」をにぶらせて
他人の感情が読めなくなっただけ、としか見えません。強い人間にただ無批判にしたがい、弱い人間に強く出れる
それを「強い人間」と呼んでいるようにも見えるのです。この点を充分考えてみて下さい。私には、だから、常識が
戦争を向いているとしか解釈のしようがないのです。

ここで

 母親が子供を甘やかすのを、ちゅうちょするような「常識」のいくつかを例にあげ、検証していきましょう。

1.なんでも、自分のいう事が通ると思っちゃう人間になってしまう。

確かに、世の中には、こんなタイプの人間がいます。しかし、本当に育てられる時親に「なんでもいう事をきいてもら
ったのでしょうか?」いえいえ、まったく反対だと思います。我慢させられ、がまんさせられ、我慢さえすれば、最後
にはなんでも自分の思いどうりになる、と教えられ、結局ひとの上に立つという地位を得たとき、感情の固着が顔を
だして、しまったのだと思います。

2.欲望の抑えられない人間になってしまう

これも、1. と同じですね、確かに欲望を抑えられなくなったかのように見える人間は存在します。そして、人々は
「甘やかされて育ったから・・」と確信をもって、ささやきあいます。しかし完全な事実誤認です。悪意のある誤解と
しか、いいようがありません。赤ちゃんの時の欲望はただ一つ「母親のやさしさとぬくもり」だけです。常識や慣習
に恐怖して、一番肝心なものだけを与える事ができず、子育てをされると「欲しい欲しい!!」という欲望だけが
固着して、本人もなにが欲しいのかわからないまま、手当たりしだい自分の物にしたくなっちゃうんだと考えられま
す。でも、なにを手に入れても、全部違うんです。ついには欲求不満が頂点にたっして、あらゆる感覚が麻痺し、
暴走する事もまれでは、ありません。また、
薬物中毒の原因もここにあると思っています。「このやさしさとぬくもり」
は人間という生命体がいき続けるために、絶対かかせないものなのです。これを欠けば、凶暴になり、考察力が
欠如してしまうため力強く命令する人の存在がいきる為の絶対条件になってしまう。これが私の研究結果なので
す。そしてこれがかの王様が観察した結果なのだろうと思っているのです。

3.くせになる

本文にも書きましたが、「くせ」というのは幻想です。あたかも「くせ」のような行動をとるひとは確かに居ます。しかし
けっして「甘やかされたから」ではない事はまえの2点と同様です。「くせになるから」と言う言葉はなんとなく正しい
ような響きを持っています。甘やかせられたから、甘えがくせになってしまったんだ。等という解説をもっともらしく
する人がいますが、精神医学の発達は、
はっきり「ノー」と言っているのです。普通の人間が「なんとなく」感じるもの
と事実では、まったく違うことはよくある事です。例えば、地上の人間が太陽をみて「あぁ確かに地球は太陽のまわ
りまわっているなぁ」等と感じる人は皆無に近いと思います。感覚的には「地球のまわりを太陽が回っているようにし
か見えないのです。精神医学では沢山の症例などを、注意深く観察し、沢山の科学的思考を重ね結論をだしている
のであって、決して思いつきで何かを言っているわけではありません。だから
「くせ」が怖いのではなく「感情の固着」
危険なのです。

4.親を甘く見るようになる

えっ!って感じですね、すべてを受け入れられた子供は親に対する「基本的信頼」が育ち、感謝こそすれ甘く見る
とか馬鹿にするなんて、到底考えられない事です。だいたい、甘く見るとか、馬鹿にするとかってなんなの?
よっぽど劣等感の強い人間が、スケープゴードが欲しくて、やってるだけの事なのに。「自分の方がこいつよりまさ
っている」っていう確認作業なのではないでしょうか?

ほかにも

似たような常識はいくらでもあります。確かに、赤ちゃんから、甘やかして育てるという事は大変な事です。だから
本当に甘やかして育てている人なんて皆無だと思っています。しかしここではっきり
断定します

「甘やかされて、育てられれば、絶対犯罪者にはなれません!」

  何故なら「おもいやりの心」が育ってしまうからです。「なりません」ではなく「なれない」のです。
勿論、政治犯や思想犯のような、もしかしたら、法律の方に問題があるかも知れないような犯罪や冤罪は別です。
私がいいたいのは、人をだましたり、盗んだり、傷つけたり、殺したりといった犯罪や麻薬のような自傷的な犯罪を
さしています。
しかし、その為には、両親は肉体的にも物質的にもかなりの苦労が必要だと推測します。ですから、むしろ

常識にしたがって、おどかして、おとなしくさせた方が、どれだけ楽かわかりません
でも、人々は故意に見落としています。この時楽をした分、何倍にもなって、大きくなってから、
仕返しが来る事を。ちょうどそれは専門家?が「自我が芽生える頃」と呼んでる時期になります。「自我」はその頃
芽生えるのではありません。赤ちゃんの時からあるのです。「うちの子は自我が強くて困ります」というセリフの
なかに証拠があります。「自我」がなかったら生きてはいけないのです。脅かされ、時にはなぐられ、体力が大人
には絶対かなわない為自分の欲求を一旦ひっこめて、いるだけです。あきらめてはいません。だから体力的に親と
五分に戦えると確信すると、引っ込めていた自我をだしてくるのです。だから、この時あたかも自我が芽生えた様に
みえますが、決してこの時始めて芽生えたわけではないと私は確信しています。

体力的に

まさらなくても、知能が発達して、くると、潜在意識が、自分の意志とは無関係に親に対する復讐をしてしまう事もあ
ります。それが
「犯罪」です。犯罪を犯せば、まちがえなく、親はとんでもない苦しみをしょわされる事になってしま
います。子育で楽をしたむくいにしてはあまりにも、むごすぎます。これは私の確信に近い結論です。

しかし

わたしが、ここで、言っているもう一つの現象を説明しなければ、納得出来ないひともいるかも知れません。それは
自我を永遠に(死ぬまで)出せないように育てる、この復讐は発現せず。親も「なんか違うような気がする」とは思
いつつも、最後まで楽出来る育てかたがあるのです。最初の段階で「やさしさやぬくもり」なんてこの世にはないんだ
と思いこませる育てかたです。好戦的な民族の伝統的子育てにはこれが採用されています。しかし、この方法で育
てると、極度の怖がりになってしまいます。その為たえず逃げ場を見つけ出し必死ににげます。この怖がりが戦争に
向いているのです。おどせばすぐに牙をむきます。おどしているつもりでなくても、本人が脅かされていると感じたら
すぐ、牙をむいてきます。

この特性を

いかしたのが「権力構造」です。天敵に襲われた草食動物の逃げ惑う姿を想像してください。一番遠くに逃げたもの
勝ちです。それには
他人の事等おかまいなしです。だから、彼等は権力の中に繰り込まれると、出来るだけ目立た
ないようにしようとします。なにか問題が起きれば怖さゆえに
自動的に「うそ」が口をついて出てしまうのです。さらに
権力構造の最下層に位置している人間は、まだ怖いので、自分より下が早くほしくて、権力構造に入ってこな
い人間を執拗に攻撃してしまうのです。ところが。この権力構造というものの最大の欠陥は、
数的に制約がある
いう事です。すなわちきびしい、選別が行われるという意味です。同じように育てられても、
振り落とされる可能性は
非常に大きいのです恐怖心を抱えたまま、権力構造に組込まれなかった人間は「みじめ」のひとことにつきます。
たいがいは精神的病に突入するか、犯罪を犯すか、引きこもりになるか等の
社会生活不適応になってしまうよう
です。
幼児虐待をする人はこのタイプです。又時には排他的宗教集団に身を投じる場合もあります。

すなわち

「やさしさや、ぬくもり、なんて、存在しないんだ」と教えこまれて、育った人間は潜在的に死の恐怖と戦っており、自
分より、
弱い人間の存在が生きていく「必要条件」になってしまっているのです。ですから、権力構造に組込まれた
人間といえども
「スケープゴード」がなくなれば、いきなり精神は破壊されてしまうのです。勿論これらはあくまで私の
私論以外のなにものでもありません。またそれが良い事とか悪い事といった価値観でいっているわけでもなく、出き
るだけ客観的に考察すると、こんな現象はこのように説明したら、うまく説明できるのではないか?という程度のも
のです。勿論反論もあるでしょう。それを歓迎します。

一方

母親の愛情を一杯うけて育った子供は、体も丈夫で頭もよく、なにより感受性に優れとても好もしい子供に育ちま
すが、一つの欠点があります、それは
「攻撃に弱い」という事です。攻撃してくる相手が人間の場合はなお更です。
私は、自分をも含めまだ「通常種」は見ていません。しかし子供達の中にはそれらしい人間を見る事が出来るので
すがたいがいは、大人になる過程で、なんらかの変更をよぎなくされているようです。たぶん成長は「絶滅種」より
相当遅いのでしょう。だから、もしかしたら、充分成長したら、その頭の良さで、攻撃を回避するなんらかの知恵を
身につけるかも、しれません。それまでは、きっと
母親が守り続けなくてはならないかもしれません。

私が使っている

「頭のよさ」とは「感受性豊かで創造性にとみ、思考力考察力に優れている為、取り入れた情報を有機的につなげ
る事が出きるので、しっかりした自分の考えを有すると同時に、新たな情報が入れば、臆するところなく、自分の考
えに変更を加えられる柔軟性を持っている」という意味です。ですから
一般的に使用されている「頭が良い」とは多
少異なるかも知れません。すなわち「創造性も想像力も貧困だが、自己保身や攻撃の為なら驚くほどの頭の良さ
発揮し、マニュアルの習得には人一倍優れているのに、それらを有機的につなげる事が出来ずに、矛盾にみちた
言動で、他人を苦しめたり、傷つけたりしても、考察力が乏しいので自分の言動の意味を知ることの出来ない人」
は、私は「頭が良い」とは言っていません。

戦争に

さえ、ならなければ、今の世の中結局は「頭の良い」人間が活躍出来るようになってます。社会はたえず「創造性」
を求めています。しかし、いわゆる世の中をひっぱっていく、といった立場の人達には、あまり創造性は必要ない様
なので教員とか官僚とかの公務員の世界は別です。大会社も自我喪失(目上の命令に忠実で、自分の意見を持
たない人間)の人間が大量に入っていますので、どこかお役所的になっているので、ここも、無理かもしれません。
しかしどう転んでも生きるすべを身につけているので、何かに頼る必要はないでしょう。
私が言いたい事は
「甘やかして育てても、将来の心配はない」という事です。しかし、常識という怪物は「権力構造の
中だけが安心の場所」と思わせて、人をして、権力構造に向かわせようとしていると、私は観察しています。しかし、
そこは「上下を一番大事にする世界。自我の存在を否定する世界」なのです。しかも、入れる人間に限りがある。と
いう、厳然たる事実があるのです。権力機構に組込まれる事を目的とした子育てで育てられてしまった人は、権力
構造に組込まれなかったら、ほぼ確実に「精神崩壊」してしまうのです。だから
「厳しいしつけで、権力構造をめざさ
せる子育て」は非常にリスクが大きいといえるのです。それこそ「将来の安定」どころのさわぎではなくなって
しまいます。

ですから

私の提言を簡潔に言えば「もう力の支配なんて、発想はやめにしようよ!」という事です。
それは、国と国との関係ばかりではなく、親子の関係、男女の関係、ありとあらゆる人間同志の関係においてです
しかし、口唇期に固着してしまうと、どうしても「操縦欲求」が抜けきらず「力の支配」に
自動的に走ってしまうのです
だから、子育てで、出来る限り口唇期に固着しない様に気を使いましょう。

その為には、世界中の女性が
「男の屁理屈」のうそを見破り、
「我が子を感情のままに甘やかそうよ!」
という事です。

時には

理想主義や○○主義、○○権の獲得、○○権の主張などの運動がありますが、勿論その主旨は基本的には賛成
です。また、現代社会ではまだまだその必要があるのはいうまでもありません。しかしそれらも、基本的には「戦争
の論理」の上に立っているように私には見えるのです。すなわち「借り物の論理」の上にたっての行動なので、最終
的には
「自己矛盾」の罠にはまっていくように見えてしょうがないのです、結局は正統派の権力機構をゆさぶる事
は出来ても、根本的解決からは程遠い様に見えるのですが、いかがなものでしょう。私はですから、「戦争の論理」
いってみれば「男の論理」から、脱却して、新しい
「論理によらない何か」も模索していったほうが良いのではない
か?と考えています。まだまだ、道のりは遠いかもしれません。

最後に

人間の不思議な生命力は、過酷な環境で、過酷すぎるが故に「ふっきれる」という現象がおき、自己修復を容易に
して「通常種」に限りなく近い人間をつくりだすメカニズムも用意されている。という事だけを記して終わりにしたいと
思います。この詳細は、機会があったら、アップしたいと思います。

ここまでつきあってもらい有難うございます。

 
甘やかす

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