三味(ざんまい)

 
   日本人の大部分は仏教徒の様ですが、仏教にはあまり詳しくないようです。かく言う私もほとんど知りませんでした
お葬式の時お世話になる所位の知識しか、ありません。25年位前に母が亡くなり、その時そのお寺のお坊さんと色
々話をして、興味を持って調べたところ、結構面白いので一時、はまりました。般若心経も全文解読に成功しました
ただし、物理屋が読むとこう読めると云う、私のオリジナルです。機会があったら、発表していきたいと思います。
しかし、ここでは、 ごく、一般的な仏教についての、私の解釈を述べてみたいと思います。それは、この研究と
も少なからず関係があるからです。

お釈迦様が

 長い修行の後、里に降りてきて、菩提樹の下で瞑想をしていた時。ある朝明けの明星が輝く中で
「あっ、そうか、いやー不思議なもんだ、生きとして生けるものすべてが、如来の知恵と徳をもっているんだ!
  ただ、執着や妄想があるから、それを知らないだけなんだ」 と悟りを開いた時から、仏教は始まるのです。
この、もともともっている、如来の知恵と徳の事を「仏心」(ぶっしん)と呼び、この自分の中にあると云う仏心を信じる
のが、本来の仏教なのです。お釈迦様の死後何年も経って(百年以上だと思いますが、忘れました)ある王様が、
あ釈迦様の言い伝えをまとめたのが、お経です。その後三蔵法師で有名なさんじょうげんじょう(すみません、変換
できません)がインドに行って、当時の中国語に翻訳したものが、現在日本に残っているお経なのです。

仏教には

 信者が全員出家しなければならない、小乗仏教と必ずしも出家しなくてもよい、大乗仏教とがあります。また、ヒン
ズー教の影響を受け「実は、お釈迦様の教えの後ろに隠された教えがあります」と云う意味で「密教」と呼ばれる宗
派があり、日本では最澄の天台宗と空海の真言宗がそれにあたります。現在の中国ではすべて密教とも聞いてい
ます。ですから、禅宗は顕教(けんぎょう)と呼ばれています。

そこでは

座禅をとうして、執着と妄想を打ち消し、自分の中の仏心を見つめる修行をするわけです。しかし、なかなかうまく
いかないみたいです。そこで、その修行自身が目的になっていくようです。そして出家していない信者、在家の修行
の中に「三昧」(ざんまい)というのが、あるのです。それは、なにか物事に集中して一生懸命になる事をさしています
わき目もふらず、一心不乱になる事で、執着と妄想に打ち勝とうと云うものです。

しかし

 お坊さんには申し訳ないのですが、たぶんすごい反論が予想されますが、私が色々調べているうちに、どうやら
「仏心」と云うのは、「自我」の事ではないかと思えてきたのです。すなわちego(エゴ)こそが仏心であろうと、かなり
の確信が出てきたのです。エゴの持っている才能ははかりしれないものがあります。スーパーエゴ(恐怖心)でつぶ
さなければ、天才的才能を発揮する事も夢ではありません。そしてなにより、対人関係が驚くほど穏やかなのです。
と云う事は、自我喪失してしまうと、ちょっこらちょいの修行で自我を取り戻すのは至難の技です。でも三昧なら、そ
れも、良い物に限定せず、むしろ、悪いものに没頭する三昧なら、充分修復の可能性が出てきて、自我をある程度
は取り戻せるのです。

お釈迦様以降も

 人間の歴史は戦乱を繰り返していますので、時の為政者が、人心把握の為に、宗教を利用する事は一般に行わ
れていた事ですので、もしかしたら、御釈迦様の真意が伝わらなかった可能性も大きいと思われます。しかし御経
と云う形で残されたものは、解読が難しいので、改変されずに残ったのではないかと思われ、かなり重要な事がか
かれて、います。キリスト教も聖書の教えを昔は牧師の解釈以外に異論を挟むことを許されなかった時代もあった
のです。ちかくでは、アメリカの奴隷じだいに、奴隷が字を読む事が禁止されたりしていました。

スーパーエゴで

無能化する教育も、為政者の都合で編み出された、教育方法であったと思われ、現在それが引き継がれている事
に多少の不安を隠しをえません。現実に自分の頭で考えられない子供達が増えている事が心配です。

 
     
 

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