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我慢すると、受け入れる


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  「我慢する」というのと「受け入れる」という現象は表面的に見るとまったく違いがわからない物です。すなわち表面で
しか人間を見る事の出来ない人には同じ事にしか見えません。しかし心理的内容は全くの正反対なのです。我慢と
いうのはストレスとまったく同じ物です。何らかの「行動を起こしたい」という欲求が生じてもそれを抑制するわけです
から「欲求エネルギー」は行く場所を失って蓄積してしまうのです。バネを縮めて保存しておくようなものです。ですか
らおのずと限界があるわけです。しかしこの限界は「代替欲求」である程度緩和する事も不可能ではありませんがそ
れでも限界はあります。代替欲求を満たしても、もともとの欲求がなくなるわけではなくたえず代替を必要とします。こ
れが「趣癖」です。代替欲求は基本的には精神的満足なのですが「御褒美」という意味を含めて物質や食物になるこ
ともあります。すなわちたえず御褒美がなければ我慢はすぐに限界に達してしまうという意味です。基本的に通常の
欲求は「自慢」を求めていますから、それを抑制(我慢)すると御褒美には「人より上」とか「自分だけ」という優越感が
味わえるものが必要になるのです。そしてこの
「代替欲求」は代替であるが故に瞬間的満足以外の満足は味わえないのです。
その為いつまで経ってもなくならないばかりかさらにエスカレートしていくのが普通です。この現象を「人間の欲望には
際限がない」と判断してしまう原因です。我々が「欲望」と呼んでいるものはこの「代替欲求」だったのです。すなわち
現代の人間社会はこの「代替欲求」で発展してきた文明といえると思います。その為人間に「上下」が必要になって
しまうのです。代替欲求は際限がない為、子供に際限なく御褒美を与え「優越感」を与え続けられるのは金持ちにし
か出来ないので、どうしても縦社会は金持ちに有利な社会になってしまいます。それは必ず貧富の差が開いていくと
いう意味でもあるのです。「機会の平等」もあやしくなりますね。これでは深刻な争いがおこるのも必然です。そしてな
により我慢はストレスですから御褒美がないとストレスは蓄積して身体に重大な影響が出てしまいます。疲労しやす
くなったり、慢性的病気を抱えたり老化がはやまったりするのです。我慢に我慢をかさねそれでも沢山の御褒美を貰
っても欲望に際限がない為いつか限界が来てついには自分の身体を守る為「悪い事とは知りながら」不正に走って
しまうのです。「見付かりさえしなければ生き長らえる事が出来る」という誘惑には勝つ事は出来ません。すなわち
不正には自分で自分に御褒美を与えるという意味合いがあります。そして一旦不正に走ってしまうと今度は「見付か
らない為」の方策にあらゆる能力を駆使し、力の限りをつくすのです。すなわち見付かった時の「詭弁」や誰かに罪を
なすりつける為のスケープゴードを用意したり、ほとんど彼等の人生はそれだけに費やされることになります。すな
わち「不正」には命がかかっているのです、犯罪も殺人も同じです。勿論不正や犯罪を擁護しようという意味ではあ
りません。「必然」について考察しているのです。「悪い事」にしてしまうと「隠す」以外に方法がないのです。いいな
おすと
我慢をさせると命を守る為沈黙の壁が必ず必要になる
という事です。
「少しわかった、でも人間が社会生活をしていく上でお互いに我慢しなければならない所があるのでは?」
という疑問を持つ方がいるかもしれません。縦社会では「お互い」というのは建前ですね。縦社会では下が我慢を
しなければならないルールになっています。すなわち縦社会を維持するためには目下のものが目上の意向に従わ
ねばならない、すなわち目下のものは我慢しなけれがならないのです。その為子育てでも「我慢する事を覚えさせ
なければ」とも言われています。実にここが問題なのです。どちらが上か下か、という事は結局「力」の問題になって
しまうのです。子供は大人に力では到底かないません、ですから結局子供が我慢するしかないわけです。子供は
まだ生命力が大きいので我慢の限界が結構あるようですがそれでもあまり大きいと身体に不調が出てきます。
しかし一般的には子供は結構我慢してしまうので「見かけ上」うまく育っていると判断されがちなのですが10才から
12才位までが限界ですかね。フロイトはこの時期を「潜在期」と呼んでいますがこのくらいの年齢まではなんとか
がまんが出来る子供が多いという事でしょう。しかしその先反抗期と呼ばれる時代にはそろそろ我慢の限界がくる
のでしょう。それが思春期と重なってくるため「性的なもの」と関係があるかの如くに思われますが、実際のところは
ただ単に「我慢の限界」のようにも思えます。まぁ「良い子」を演じれる限界とでもいいましょうか。
「でも我慢ってやっぱり必要なのでは?」
「そうしないと人間同士の衝突は避けられないのでは?」

その為にあるのが「受け入れる」という感情です。外見的には「我慢」と良く似ていますが「我慢」と決定的に違うのは
内面的に「ストレス」にならないという事です。しかしこの
「受け入れる」という感情は自分が「受け入れられた」経験がないと育たない
のです。すなわち子供時代に自分の感情が親によって十分受け入れられて初めて自分も他人の感情を受け入れる
事が可能になるのです。わかりやすく言えば、沢山「わがまま」を聞いて貰って初めて自分も他人の「わがまま」を聞
く事が可能になるのです。基本的に
「人間は自分がされた事しか他人にする事が出来ない」
と言われています。私はそれがすべてではない様にも感じますが傾向としてはそういう事があると思っています。すな
わち「怒られた事のない人は他人を怒れません」「やさしくされた事がない人は他人にやさしく出来ません」「なぐられ
た事のない人は他人をなぐれません」「だまされた経験のない人は他人をだませません」勿論「なぐられた事のある
人は必ず人をなぐる」という意味ではありません。
「えっ?それじゃぁ殺されたことのある人じゃないと人を殺せないの?」
「それっておかしくなくな〜い?」

ですよね。でもアリスミラーが「魂の殺人」という事を言っています。すなわち「魂を殺された人だけが殺人が可能なの
です」彼女の言っている「魂」とは多分私が言っている「エゴ」と同じ物です。すなわちすべての人間のエゴを育てる事
に成功しさえすれば「殺人のない社会」は実現可能だという事です。
「そっか!それじゃぁやっぱり誉めて育てればいいわけだ」
いえ・・・ちょっと待ってください。そういう事ではないのです。あくまでも「子供の感情を受け入れる」という事ですから
親の価値観で「誉めても」それは子供の感情を受け入れるという事ではないのです。「誉めて」なにかを「やらせて子
供が「出来るようになる」というのは「芸を仕込む」と同じ事なのです。ちょっと思い出して下さい。芸をしこまれたチン
パンジーが凶暴になったのは何故でしょう?やっぱり人間も芸を仕込まれると大きくなって凶暴になるのです。勿論
人間ですから凶暴な感情を潜在意識に押さえ込む位のことは出来ますがいつ爆発するかわからないような危険な状
態のまま成長するのです。「誉めるのがいけない事」ではなく親の感情の押し付けに「誉める」という事を使わないよ
うにしてもらいたい、という事です。すなわち「誉める人」=「目上」、「誉められる人」=「目下」の図式を作らないよう
に気をつけていないと子供の自我の成長に支障がきたすという意味です。子供は自分の感情で「やりたい」と思った
ものは誉められなくてもどんどんやっていきます。それを受け入れればいいだけです。勿論それは親が縦社会の価
値観で見ているととても「成長が遅い」と感じてしまうかもしれませんがその分「確実」なのです。怒ったり誉めたりし
て知識や行動を早く大人の意向に沿わせようとすると出来なくはありませんが、それが「芸をしこむ」という事です。
ですから外見だけ成長して内面的には凶暴性、すなわち人間に対する攻撃心が生じそれを抑制せざるをえません
から心の不安定な人間になってしまうという意味です。すなわち
「表面だけで中身のない人間」
を作ってしまうのです。一方自己回復というか自分でエゴを育てることに成功すれば「自慢」が心の中に定着してそれ
は「自信」以上に安定した物になるので「人を責めてはいけない」ではなく「人を責める必要がない」事になります「人
を殺してはいけない」ではなく「人を殺す必要がない」という事になるわけです。すなわちエゴを育てる事に成功すれ
ば我慢する必要もなく「受け入れる事」も可能になってきます。勿論それは「あきらめる」とは、まったく別の物です。

勿論「受け入れる事が出来る」というのでさえ「代替欲求」までは受け入れるにはかなり難しいものがなくはありませ
ん。「代替欲求」には「他人を支配したい」と言うのがありますので、そこまではなかなか受け入れられないかもしれま
せん。難しい所です。要するに「我慢」をさせるとその分「代替欲求」が出てより人間関係に争いの元を作ってしまうと
いう意味です。エゴの育った人同士では「欲求水準」そのものが低いので「受け入れる」感情だけで十分社会生活は
可能なのです。勿論その社会生活は「横社会」です。すなわち「我慢を教える」事で他人に対する欲求が大きくなりす
ぎて、そのほうが余計社会生活での摩擦が増えてしまうのだ、という事です。この「受け入れる」という感情は動物が
外界の環境に適応して行く為の「本能」とも言うべきものであろうと推測します。しかし「親」によって「安全」を確保して
貰わないと育たない本能であろうとも思われるのです。すなわち親から「安全」を感情的に確保してもらい「受け入れ
る感情」が育てばどんな環境にも耐えられる事が出来るのではないでしょうか。それは何処に行ってもその環境にな
じんで生活が出来るという意味でもあります。ですから逆に言えば「我慢」を教えられた人ほど環境の変化には弱い
のです。とはいえ、現在は厳然として「縦社会」が存在しています。しかも競争社会です。その意味は「がまん」を教
えられ芸を仕込まれ、芸は出来るが心の中に凶暴な感情を抱え込んでいる人達が沢山いるという意味です。「受け
入れられて」育った人達はエゴがかなり育っていますので、そんな社会では抱えきれない程の物を受け入れさせら
れてしまうかも知れません。それは結構ハードな話です。しかし「受け入れられる」感情が育っていさえすれば人間
社会も自然の一部と捉えればすなわち「自然を変えよう」とするのでなく「自然に適応」しようとするのですから、そ
れなりに生き抜く事は不可能ではありません。勿論かなりずば抜けた才能でもない限り出世するとか大金持ちにな
るとかは出来ないかも知れません。しかしたとえ社会の片隅に追いやられたとしても「満足感」や「幸福感」は手に入
れる事が出来るでしょう。すなわち「幸福の形」を作れなくても「「心の平安」すなわち精神的「幸福」は手に入れる事
が可能なのです。

まとめてみますと「がまん」を教えるという事は結局「強い者が弱い者を支配する」というのを教えるというのと同じ事
だという事です。すなわち元々不安定な縦社会をなんとか維持する目的以外のなにものでもありません。そしてなに
より「がまん」をすると「優越感」をたえず満足させる「なにか」を求め続ける人生になり物質的に恵まれても「不安感」
から抜け出す事は出来なくなってしまいます。多分そこには「幸福の形」は作れても言い直すと人に見せる「幸福」す
なわち表面的幸福はあっても「心の幸福」すなわち「内面的幸福」とは縁遠い物になってしまうだろうという事です。
いいなおすと「皆がわがままになってグチャグチャになるのは縦社会であって、それはもともとグチャグチャなものだ
った」という意味でもあります。がまんで作られた社会は表面的「平安」を作れてもそこは虚構の世界なのでいつ争い
が起こっても不思議ではない世界だという意味でもあります。すなわち「がまんを教えるとかえって社会を不安定にし
てしまう」という意味で従来の親や先祖から教えてこられた「常識」には懐疑的にならざるを得ないという意味でもあり
ます。すなわち
「忍耐」「精進」「努力」
なんて言葉は他人から言われる筋合いのものではない、という事です。自分のやりたい事を自分のやりたい方法で
やっていけばいいだけの話で、それは外からみると「忍耐」している様に見えるかもしれないし「精進」しているように
見えるかもしれないし「努力」しているように見えるかもしれないが、本人は「没頭」しているだけにすぎないのです。
他人が特に目上の人がとやかく言うのはおかしな話だという事です。
でも良く考えて見ると「がまん」をさせて心の中に凶暴性を抱えさせれば「優秀な戦士」を作る事が出来るという事で
すよね。すなわち過去の人類は戦争に明け暮れた歴史を持っていますから「優秀な戦士」の存在は為政者にとって
は絶対的に必要なことだったのでしょう。すなわち自分達を守る「いけにえ」がどうしても必要だったという事でしょう
だから「がまん」が常識化したのだと思います。いいなおすと常識を無批判に鵜呑みにしてしまうといつのまにか我
が子を為政者の「いけにえ」にしてしまうという事でもあるのです。わかりやすく言えば我が子を勝組みに入れようと
競争社会に適応させる為に「がまん」を教えるとうまく競争に勝つこともありえるが、結果として負け組みに入って
しまうと、勝組みの命や地位を守る為、時には勝組みの財産を増やす為に良いようにふりまわされたあげく、戦争
にでもなったら彼等の身代わりに命をなげださねばならなくなるかもしれないという事です。勿論それなりのお金は
貰えるかもしれませんが。犠牲にした代償としてはたして十分償えるのでしょうか?

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