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縦社会と横社会


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  現在は「縦社会」の「競争社会」です。「縦社会」で「競争社会」ではなかった時代もありました。
それは人間の階級がしっかり決まっていて、上下の行き来は不可能な様に作られた社会です。今でもインドには
カースト制度として見られる様です。いわゆる封建社会というのですね。この社会の良い点は「争い」の一部が
避けられるという事ですが。一つの階級内での競争まではなかなか防げないところがあります。しかし全般的に
現在の様な争いはなかった、と言う意味で「江戸時代は良かった」と思ってる人もいないわけではないようです。
しかし後ほど検討しますが「縦社会」は必ず崩壊します。(必然です)その崩壊の時には大きな犠牲が出る事に
なるでしょう。勿論、崩壊といっても新しい縦社会が出来るだけですが。現在では「競争」によって縦社会が作ら
れています。すなわち建前的には「誰にでもチャンスはある」という事でしょうか。「機会の平等」といわれるゆえん
かも知れません。しかし、多くの問題を抱えている事も事実です。安定を保つ事はとても難しいのです。競争に
勝って縦社会の頂点付近に居る人達「勝組み」といいますか。この「勝組み」の感覚は「負けた者は負けたんだから
潔く負けを認めておとなしくしていれば社会は安定するんだ」と思っています。しかし「勝組み」が勝ったからといって
好き放題すれば、当然「負け組み」だって黙っているわけがないと思います。また「黙って他人に従う」という事ほど
人間の精神を抑圧するものはないようです、いわゆる「ストレス」になる、という意味ですね。ストレスが溜まれば
暴れる者も出てくるのは「必然」です「勝組み」が希望するようにはなかなかうまく行かないものです。国によっては
力ずくで暴れ者を抑えようとしていますが、根絶する事の難しさは想像を絶する物があるでしょう。それは人間の
本質に関わる問題だからです。だから私は「力ずく」では「不可能」と判断しています。すなわち
「力ずく」で表面的に「おだやか」な社会を作る事に成功しても「内面的」に犯罪の多発する社会
になってしまうでしょう。
そして「競争社会」の最大の問題点は「不正」の問題です。「不正はまったくない」という前提の元では「競争」という
のも、それなりの利点は、あるかもしれません。また正々堂々と争って負けたのであれば「潔く負けを認める」事も
可能かも知れませんし勝った方も負けた方に「正々堂々と戦った」印象から、それなりの心遣いも出てくるかもしれま
せん。しかし「不正」があったのでは「不正をしない者」がかなうわけがありません。「不正をしない者」が圧倒的に
不利な社会が出来るでしょういわゆる「正直者が馬鹿をみる」という社会でしょうか。勿論あらゆる方法で不正を防ぐ
努力はするでしょうが、これも犯罪と同じで、抑止力だけでは限界がありますよね。選挙の度に「選挙違反」という話
が出てきます。いつまでたっても「なくなる」気配はありません。勿論「見付かった」のはごく一部であると見るのが
正しいでしょう。不正をする人達は細心の注意を払って「見付からないように」しているわけですから「発見される」
事の方がはるかに少ないと思われるのです。「不正」をする人達、というのは「不正なれ」していますから、どこでも
機会があればするでしょう、そんな人達に政治をまかせていたのでは、結果は見えていますね。勿論これも
善悪の問題ではなく必然なのです。
医師の試験とかも良く「問題漏洩」なんてものがニュースに出てきます。これも見付かるのはごく一部と考えて良
いでしょう。それ以外に裏口入学なるものも「ない」はずはありません。見付からずに無事医者になった人達も沢山
いると思ったほうが良いと思います。すなわち医者としの資質を持ち合わせていない医者も沢山いるんだと思って
いた方が間違えなさそうです。これでは医療ミスも頻繁に起こるはずです。多分不正もかなり横行してるのでは
と推測出来るでしょう。これら「不正の出来る人達」の心は「不正が見付かるか?隠し通せるか?」という所にほと
んどのエネルギーを使っていると見ても良いでしょう。その為「不正の出来る人達」同士で「連帯感」が生まれます
すなわち「共犯意識」ですね。そして閉鎖的集団を作るのが普通でしょう。彼らは後ほど考察しますが、基本的に
「人間不信」です。しかしこの「共犯組織」の中では「告発できるわけが無い」という保障があるので、互いに「告発し
ない」という暗黙の了解のもとの「信頼関係」が構築されます。要するに「基本的信頼」はないが、互いの利害の
共有、という「信頼」は出来るのです。「不正をする人達」はこの様な組織がないと安心できないのです。しかしこの
信頼関係はとてももろいので(基本的には信じていないから)組織の内部崩壊の大きな要因です。ここにも
「真実を覆い隠す沈黙の壁」がありますよね。でもこの壁、打ち砕くには相当の勇気がいるでしょう。勿論競争社会
に「不正なし」で勝ち進める人もいるでしょう。しかしそのような人は組織の中で、最も煙たい存在である事は十分
想像できる事です。すなわち「不正の出来る人」達の集団が出来上がると「不正の出来ない」人達は十分その
実力を発揮する事は出来なくなってしまうのです。そして「告発」なんかしようものなら「裏切り者」と言われ時には
冤罪をかぶせられスポイルされるでしょう。「不正を告発する」事は多分「良い事」のはずですが、彼らから見れば
紛れもなく、平安を乱す「悪い事」となってしまうのです。ここにも善悪の「価値観の逆転」が見られます。
「価値観の逆転」が存在すれば、それは深刻な「争いの種」を含んでいる
事を意味するでしょう。
政治を司るもう一つの集団「官僚」の事はベールに閉ざされなかなか見えにくい物です。多分分厚い「沈黙の壁」
で守られているのでしょう。しかしその行動形態を観察すれば、彼らもきっと「不正の出来る人達」と推測しても良い
と思われます。「沈黙の壁」を作る事自体あやしいですよね。政治の世界では「贈収賄」という「犯罪」にもなる「不
正」がつき物です。何故「贈収賄」は犯罪なのでしょう?勝組みの人達の中には「(賄賂を)送る方も受け取る方も
得をするし、誰も損をしないのに、なんで犯罪なのか?」と本気でいってる人を見る事もあります。しかし実はちゃん
と損をする人がいるのです、それは国民です。贈収賄があると、利益が一部の人間に偏ってきます。それが続くと
やがて、貧富の差が広がってきます。貧富の差が広がると、それだけ社会が不安定になるのです。やがて国その
ものが滅びる事になります。国民一人あたりの被害は一人当たり100円とか1000円とか少ないかもしれません
しかし、それが度重なっていくうちに取り返しがつかないくらいの被害になってしまいます。歴史がそれらを教えて
くれます。だから何処の国でも「贈収賄」は法律で禁じているのです。日本では「天下り」という巧妙な形で贈収賄
が公然と行なわれています。いってみれば「時差式贈収賄」です一部の業者に便宜を図ることで「天下り」が約束
され「退職金」という名目で「成功報酬」が得られるので贈収賄の原理からすると間違えなく「贈収賄」になります。
しかし「その場で報酬を受け取っていなければ法的に贈収賄にあたらない」と解釈してごまかしているようです。
業者も「成功報酬」である退職金を払うには、それなりの利益を上乗せしなければならないわけで、その分受注の
金額は大きくなっているはずです。もしその様な退職金が必要なかったら、もっと安く出来るはずです。だから受注
出来る業者は「天下り」を受け入れる業者に限定されて「より安い業者」は排除されてしまいます。その分税金が
余分に使われ、結局「官僚の懐に入る仕組み」が出来上がっているのですよね。この問題に限らず、あらゆる方法
を駆使して、官僚の「税金の横取り作戦」は続いています。そしてこの繰り返しがすでに何十年と続いているので
国の借金はどんどん膨れ上がって行っています。そうなると税金を引き上げなければならなくなるでしょう。そして
さらに「横取り」はエスカレートしやがて国民の負担を超えてしまうかもしれません、そしていずれは破綻する
でしょう。
勿論これらの事は良い事でも悪い事でもありません。ですから私は彼らを弾劾しようとしているわけでもなく告訴
するわけでもありません。ただ「必然」としての現象を分析しているだけに過ぎないのです。そして「不正を行なえ
る人達」と言うのはどうやって作られていくのか?それとも生まれ付きなのか?と言った事を解明していく事で
より基本的解決方法を模索していこう、という事です。
ただし、この様に分析を進めて行くと自動的に「善悪」でとらえて、怒り出す人も出てくるかもしれない可能性は
排除しきれません。それが「抵抗」と云う形になるでしょう。すなわち「善悪」があると「真実」を見出そうとする行為
に対して、必ず「抵抗」が生じて「真実」は閉ざされてしまうのです。言い直すならば「善悪」を完全放棄して現象
を純粋に分析していけば必ず「真実」に到達出来るという事です。ここまで聞くと「真実なんてあるのか?」という
疑問が出てくる人もいるかもしれません。それは「真実を見たくない」という感情から発している疑問です。真実
があるか?ないか?は「真実はない」という所から出発したのでは、見出す事は出来ないでしょう「真実はある
はず」と言う所から出発すれば、まずはその回答(真実があるか?ないか?の回答)に近づけるはずです。

縦社会の分析を現在の日本を例に進めてきましたが、実はこれらの事は歴史のどの断面、どの国でも同じ事が
繰り返されているという事を歴史を知れば、見出す事は可能でしょう。すなわち「縦社会」はいつも不安定でいつ
かは必ず崩壊する、という事です。これを繰り返していくうちにやがては人類そのものの存在が崩壊する事も時間
の問題であろうと、思っています。すなわち人類の滅亡です。
それじゃぁ「横社会」なのか?と思いますが、歴史が現れて以来(有史以来)「横社会」というものは見た事がありま
せん。すなわちモデルがないのです。後は想像力を駆使する以外にないかもしれません。「平等」と云う言葉は現在
の「勝組み」にとっては「とんでもない事」と感じているようです「そんなものあるわけが無い」と思っているでしょう。
それは暴力で「平等」を作り出そうとしたマルクス主義の猛威が頭から抜けないのでしょう。勝組みにとってそれは
「トラウマ」になっているとさえ、いえると思います。ほとんど自動的に「平等」と云う言葉に嫌悪感すら抱くようです。
このあいだも「自由とか平等とか教えるから、不平等になるんだ!」と訳のわからない事を口走っている代議士さん
をテレビで見かけました。彼の脳裏には「平等なんて概念があるから、我々の生活(彼の中では国民の生活と翻訳
されていり可能性はありますが)
が脅かされるんだ!」と思っているのではないかと推測出来ます。しかし同時に
自分達に少しでも不利になれば「平等」を盾に持ち出す事もまれではありません。
横社会は人間に「上下優劣のない平等の世界」でしょう。でも力ずくでは実現する事は不可能です。ではどうすれば
良いのでしょう。ヒントはたった一つ。自分で考えたり、自分の行動を決められない人が多くいれば、彼らに指示を
与えたり、時には命令をする人が必ず必要なのです。そうなれば人間に「指示するもの=上」「指示を受ける物=下」
という公式が出来上がって、自然と縦社会が出来るでしょう。これは必然です。すなわち自分の言動を自分で
判断出来ない人が多い社会では、どんなに頑張っても
「縦社会しか作れません!」
いちど縦社会が出来て「優越感」という麻薬のようなもの
に浸ってしまうと、その地位を守りたくなるのが人間です。その為に「自分で自分の行動を決め
られない人」がどうしても必要なのです。その為「自分で考え、判断して行動する人」を「悪」にする必要が生ずるわけ
です。それは「自分で判断出来ない人が居るから縦社会が必要なのか?縦社会を守る為に自分で判断出来ない人
が必要なのか?」という問題に帰着すると思います。そして、人類は数千年「縦社会」を維持してきた為、それが「常
識」になってしまっている所があります。いいなおすならば「常識」の大部分は「縦社会」を維持する事を目的として
います。「素直で良い子」なんてのも「上に従順」という意味ですから、それに値しますよね。その他に戦争を例に
とってみると解りやすいかも知れません。戦争は個人の判断で行動することを最も嫌う現象です。
「打て!」と命令されたら、迷わず「銃を、ミサイルを発射する人間」がもっとも優秀な戦士です。徴兵制度という物が
あれば為政者の命令にしたがって軍隊に入る事が「正しい事」であり「徴兵拒否」などするものは「わがまま」と言わ
れ悪の根源みたいな扱いを受けるでしょう。すなわち「わがまま=悪」の公式はあくまでも為政者にとって都合の
良い価値観だという事が言えるのです。だからわがままな人間が増えてしまえば、もはや戦争どころか軍隊すら
作れないかも知れません。「ほんとかよ!?でも国中わがままで溢れたら、もはや収拾がつかなくなって、社会
そのものが成り立たなくなるのでは?」と思う人もいるかもしれません。では本当に社会が成り立たなくなるので
しょうか?いや多分縦社会は成り立たなくなるかもしれません。まぁこの本当に「収拾がつかなくなるか?どうか?」
このあたりをこれから少しずつ、見ていこうと思います。

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