僕ってこんな人

多分僕のことを、結構誤解する人がいると思うので、とりあえず自分を洗いざらいだしとこうかなぁ?
なんて、思ったりなんかして。(^^)

とりあえず、今後更新をしない予定なので、年齢は2001年現在で61才という事にしておこう
西暦1940年、昭和15年、皇紀2600年(オーッゼロ戦と同い年だ)1月5日生まれ[男]
身長163cm、体重55kg、昔は162cm少し足りなかったはずなのに、50歳代に測ったら
何故か163cmを超えていた(°°)? 40才台に1cm以上背が伸びた???

生年月日は、当時は年齢が数えだった為に、本当は1939年12月20日生まれなのに、
正月がくると2才になっちゃうので、可愛そうだってんで、親が1月生まれに届けたって話も
聞いているので占いをするときは1939年12月20日生まれで見ることにしている。
さらに真夜中の0時に限りなく近い時間なので、東洋の占いでは前日に入るので
12月19日生まれで見ることにしている、そうすると、かなりあたってるみたい(^^ゞ

ってわけで、射手座、血液はO型、戊(つちのえ)卯7赤金星、中宮傾斜
7赤なので、同時に「ごん宮傾斜」・・・家庭的な星
「ごん」という漢字は良と言う字の頭の点がない奴、漢字が出ない(;^^A
調じょ星(じょの漢字もない)ちなみに43才から、62才まで大運天中殺中
動物占いはペガサス

って事で、占いも結構趣味のうちってのが理解してもらえたかな?
最近の趣味はもっぱらインターネットだけど、昔は結構多趣味だった

私の両親がクリスチャンだった為に中学1年の時に洗礼をうけて一応クリスチャンやってます
大学卒業するまでは、結構毎週日曜日には教会へ通っていたが、大学卒業してからはまったく
行っていない。(;^^A      まぁ教会は僕にとっての青春時代の遊び場所だったのかな?
だから、あんまりキリスト教に詳しいわけではない。とりあえず聖書は一回は全部読んではいるが
ほとんど忘れているかもしれない。キリストの好きな所は「主の祈り」というので

「我等に罪を犯すもの、我等許すごとく、我等をも許したまえ」

ってのが、ず〜っと、今でも好きかもしれない。
中学時代に、結構いじめられッ子だったけど、いじめられている時泣きながら心の中で
「この子達は自分のやっている事を解っていないのです、どうか神様この子達を許してください」
なんて、つぶやいていた記憶があるから、相当キリストにははまってはいたみたいだなぁ(;^^A

でも、今にして思えば、これが良かったのかもしれないとも、思えなくもない。
やっぱ「恨み」を引きずると、どうしてもつらくなってしまうからなぁ・・・・・

話は飛んで小学校の頃は、もう科学関係が好きで好きで、親に買ってもらった実験の本が
僕の宝物だった。特にブリキで作るモーターが好きで、当時あったブリキ屋さんにいって
切れ端を貰って来ては、くぎの頭をつぶしたり、お小遣いはたいて、エナメル線や電池を
買って、モーターを作ったもんだ・・・・・・・・でも回らなかった(^^ゞ
今から思うとかなり器用じゃないと、というか、正確さが必要で、よほどうまく作らないと
3V位の電池じゃ回るわけがない。小学校5年の時、初めて「キット」になったモーター
を買ってきて、作ったら、回ったのだ!!嬉しくてうれしくて、1日中モーター回して眺めてた
電池が切れると、また新しいのと取り替えて・・・・・・・・ソコマデスルカ

小学校6年で始めて「鉱石ラジオ」を作ったのだ。当時はまだ「ゲルマニュウム・ダイオード」
はなかった。でコイルも「スパイラルコイル」という奴で、レシーバーもでっかい今でいうヘッドホン
のちゃちなやつみたいな。でも、NHKが聞こえたのだっ!!!、これももう、とんでもなくうれしかった
まぁ、これが決定打になって理科系になっちゃったんだろうなぁ・・・・・
中学高校はラジオ作り三昧の人生で、他にはほとんど興味を持っていなかったかも
しれない。勉強は・・・・・・・・・しなかった(;^^A
字があまり綺麗じゃなくって、(;^^A・・・いやバッチイノなんの
でもって、字を書くことにコンプレックスがあったので、ノートも全然とらない、時々先生に
「ノートとれっ!!」って怒られていた(;^^A
試験勉強って奴もした記憶がない。だいたい授業で理解したことや憶えた事だけを
試験に書いていただけだから、当然成績が良いわけがない( ̄^ ̄)☆\(ーー )エバルナッ!
でもこれが幸いして、当時覚えた事は、今でも覚えている。DDTの構造式なんて、役にもたたないが
憶えているんだな、これが・・・・・

あぁそうそう、実は中学から立教の付属でいわゆるエスカレーターだったからこんな贅沢な
勉強でなんとかなったんだよね♪これだけは親にほんと〜〜〜〜〜に感謝している
中高時代は平均点が60点を下回るといわゆる落第だったんだが、どういうわけか
三学期の最後にはギリギリセーフをキープしていた。今から思うと先生がなんらかの
さじかげんをしてくれていたのかもしれない・・・・・(;^^A
大学を上がる時には70点を上回らないと、希望の学部にいけない、という事だったんだが
これもギリギリ70点という離れ業をやってのけた(^^V
めでたく理学部物理学科にはいれたのだ・・・・・・・メデタシメデタシ♪

でもここで、幾つものカルチャーショックを受ける

なんってったって、同級生が平均2浪なんだ・・・・一番年上は26才だぜ!
その頃は微分積分なんてアップアップだったのに、みんなサラサラっとほぼ暗算みたいに
解いていくのだ。「これはもうついていけないのではないか?」と真剣に悩んだ。
でも猛勉強をした記憶はない (^^ゞ
あいかわらず、懲りずに授業で理解した事だけで、試験に臨んでいた (^^ゞ

しかし、しかしですよ、皆さん、なななんと、とても厳しい数学の先生がいて、物理科数学科
あわせて60人の所、3分の2が試験に落ちるという事が起こったのですね。
受かったのが10人だけ〜〜{{{{{+_+}}}}オソロシ〜!!
しか〜〜し♪私はどういうわけか、10人のなかに入っていた〜〜(^^V
この事件(?)以来すっかり自信を取り戻して、遊び始めたのでした(;^^A
大学2年の時にもとても厳しい力学の先生がいて「追試はしない」方針で、もし期末試験
に落ちたら、3年になろうが、4年になろうが2年生と一緒に勉強しなおして、一緒に
試験受けるしかない。という方針だったんですが、これも一発合格、不思議ですよね?

そして部活動は勿論科学研究会にはいって、物理生物関係の活動はしてましたが、
メインは「マジック研究会」でした。そう、大学時代は「手品三昧」の日々でした(^^ゞ
そうそう、当時からコンピュータにはかなりの興味があって、学校の授業とは別に
独自にコンピュータ関係のホンを買って来ては、よく読んでいたもんだ。
まぁ当事は大型コンピュータの時代だし、まぁオフィスコンピュータもボチボチ
出始めの頃で、ビックリするくらい高価なものだったよね。だから、実際に
コンピュータに触れることはなかったが、紙の上だけで、プログラムを作ってみたり
加算機の設計をしてみたり、して遊んでいたんだよね。だからコンピュータの
基礎知識だけはバッチリだよ(^^V

音楽関係は、教会に通っていた関係もあって、聖歌隊に所属していて、中学時代は
ボーイソプラノをやっていたよ。まぁ基本的には歌を歌うのは好きなほうだけど・・・・
結構おもいのほか、リズム音痴なのが、カラオケが出てきた頃、まったくカラオケで
歌えなかったので、始めて知った。でも発声は結構やってきたから、声はでかいほうかも知れない
楽器は、高校の時ギターを買ったけど、ギターの練習曲が演歌ばっかりで、全然しらない
歌だったので、まったく練習にならなかった・・・・・(;^^Aエンカハニガテダ
まぁ音楽の才能はなかった、ってところかな?
でも大学時代にマジック研究会の隣にあったスペインギター研究会の人と仲良しに
なって、フラメンコの曲を一曲だけ教えてもらって、一曲なら弾けるよ(^^V
それから、ず〜っと経って、フォークの弾き方も多少教えてもらったので、
コードが書いてある楽譜があれば、見ながらなら、そこそこ弾けるかもしれない。


聞く方は、父親がクラシックファンだったので、昔から、良く聞いていた。
一番好きな曲はベートーベンのピアノ協奏曲の「皇帝」・・・・・・あれはなんだか良いよね♪
まぁ、アンプなんかも作っていたので、やっぱ、性能を確かめるのにはクラシックが
一番じゃないかなぁ・・・・・・45−45ステレオと言うのが出始めのころに45−45の
カートリッジを買ってきてステレオのアンプもつくって、列車が右から左に走り抜けるデモ
レコードなんかも聞いて悦にいっていたもんだ・・・・・
そうそうアマチュア無線は試験が平日で学校を休まないといけないので、断念した
チョッピリやりたかったものでもあるんだが、今ではNETで充分かな?

それから、絵の方は、昔から大好きで良く描いていたんだ、油絵も高校時代から
結構描いていたかもしれない。そしてなにより、何処かに旅行に出かける時は、カメラを
待たずに、必ずスケッチブックを持って行ったんだ。修学旅行もスケッチブック
でも修学旅行は、スケッチしている時間がなかなか取れなくって、結構苦労した。なにげない
顔して、列の先頭のほうにクラスを越境して、適当な所を発見すると、そこのスケッチを
始めるのだ。で描き終わる頃には、列の最後尾なんてのを、良くやっていたもんだ。
多分先生も見て見ぬ振りをしてくれたのだろう。
スケッチをする最大のメリットは、その景色が、脳裏に細部まで焼き付く事じゃないかなぁ
だから、僕の頭には色々な景色があるんだが、どの景色が、何処だったかは、ま〜〜ったく
わからなくなっている(;^^A

こうやって書いていると、僕って、結構多趣味かもしれないが、全部中と半端な気がしなくもない
まぁ、もともとずぼらな性格だから、しょうがないか(^^ゞ

あとは社交ダンスも多少かじって、アマターの7級とかいうのを取ったことはあるよ、だから
タンゴ位は踊れるんだ、これは社会人になってからの趣味。でも1年でやめちゃったから
出来るって程のものでもないか(;^^A

スポーツは全然駄目。30過ぎてからスキーなんかチョビットやったけど、まぁ出来ると
言えるほどのもんじゃないよね。あんまり好きでもないし・・・・バイクなんか怖くてのれないよ
水泳も50m泳げるかどうか?って位の実力、球技にいたっては、まったく駄目
それから、勝負事も全然駄目。碁、将棋は兄が好きで、教わったから、一通りは出来るけど
あんまりやりたいものじゃないよね。麻雀は父親が大好きで、よく兄弟三人借り出されて
家庭マージャンやらされたから、出来るけど、積極的にやりたいものじゃないし。
そうそう、百人一首は父親が好きでやらされたから、結構やるけど、好きだというわけでもなく
下の句見て上の句が全部解るまでやっていたから、出来ない人とは、比較にならないくらい
違いがあって、なんたって、上の句読み始めで取っちゃったら、下の句が出てくるまで待ってる人
より早いのは当然で、対外的にやる機会もないし、そのまんま・・・・・
勿論積極的に好きなわけでもないし・・・・

趣味関係はそんなものかなぁ・・・あぁ本を読むのは子供の頃から好きだったから、結構読んでいるよ
でも文学作品はあんまり読んでいない。夏目漱石なんかも、学校で読まされてしかたがなくって読んだけど
「こころ」とか「ぼっちゃん」とかあんまり良くは解らなかったなぁ・・・・・・まぁどっちかというと、総じて晩生(おくて)
の方だったから、恋愛ものなんかピンとこなかったのかもしれない。でも自分が興味を持ってしまうととことん
関連書物を読み漁る習性はあるよね。大学1年の頃数学科の先輩からサイバネティクスの話を聞いて
結構のめりこんだものだ。人間機械論なんてのも関連書物を読み漁ったり、関連で脳関係の本も良く読んだ

大学院には行きたかったけど、なんせ実力がないのと、親も金だすのは大学までと決めていたので、就職する事
にしたんだ。まぁそうだなぁ当時は「よし、自分で勉強しながら、一杯稼いで自分の金で大学院にいこう!」
なんて心に決めたまま、いまだに実現しない(;^^A

仕事をしていても「物理」の事は頭から離れなかったから、きっと「物理」は本当に好きなんだろうなぁとか思うんだ
40過ぎたらとか50過ぎたらとか、言ってるうちに60過ぎちゃったよ、今では「よし70過ぎたら」とか思ってるけど
もう、無理かなぁ・・・・・・・試験って奴にも弱いし。それに、物理以外にも好きな物が出来ちゃったので・・・・・
それに「お金儲け」はどうも向かないみたいだ、ってのが、最近の感想・・・・・・・(;^^A

僕は若い頃ジャンバルジャンに出てくる牧師さんにあこがれて・・・・・そうあのジャンバルジャンが銀の食器を
盗みだして、つかまった時「いや、それは彼に上げたのです」っていったあの牧師さん。まぁ小説だから
架空の人物かもしれないけど「カッコいいなぁ」って思っちゃったのが、運の尽き・・・・・・・(^^ゞ
長い人生振り返って見ると、損ばかりしてるよなぁ・・・・でも、あんまり気にしていないのは、そんな関係なのかなぁ
僕にとっての「カッコよさ」ってやっぱ変わっているんだろうなぁ・・・そんな人が「金儲け」なんて出来そうに
ないよね(^^V

これ以上話すと愚痴になりそうなので、この話はもうやめた
まぁ大学卒業してから、ある電気会社に勤めたんだけど、1年でやめた、そして、ある私立の女子高で数学と
物理を教えることになったんだ。その時の高校一年生が昭和22年生まれ、いわゆる団塊の世代の中心
だよね、その学校には一年生だけで22クラスもあったんだ。この時は面白かった事は面白かったけど、
女の子に物理を教える「むなしさ」があったんだよね・・・・・・・「なんでかなぁ・・・・」
男の子と女の子にそれほど違いはないはずなんだけど、やっぱ自己暗示的に「女の子は物理が苦手」って
意識があるんじゃないかなぁ・・・・・あるいは「物理の出来る女の子って、もてない」とかもあるかも知れない
いずれにしても「ノレンに腕押し、砂に釘」みたいな状態が物理が好きなだけになんかむなしかったよなぁ

そこも3年で止めて・・・・・うん公立の中学の非常勤講師になったんだ。でも1年でやめて、とある町工場で
働いたんだけど、これが今の「機械設計」という業務の始まりだよね。そこも1年で止めて「設計事務所」に
入って、まぁ30才に自分の会社を設立したんだ。ある大会社の下請だったんだけど、下請ってのは
大会社に完全に管理されちゃうから儲け様がないよね、でも下請でも儲けている人がいるんだから
やっぱ、僕には経営の才能がなかったんだろうなぁ・・・・・・
一時は10人位の社員を雇っていたりしたもんだが、20年を過ぎた位にバブルがはじけて、親会社が
下請の整理を始めて、モロに弾き飛ばされちゃったよ・・・・・・・(^^;

それ以前にも「脱下請」とか思って色々画策はしていたんだが、どれもうまく行かなくって・・・・・・

あっ・・・また愚痴になってしまった(;^^A

まぁこんな感じの奴ですって事で・・・・・・<(_ _)>ソレデハ

 

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