神戸から届いた2通の手紙。

この夏 思いがけずお雛さまカードをお送りした神戸のかたからお手紙をいただきました。
一通は5月に投函されたものでしたが 旧住所に届き転送されたものを日本から来た義父が届けてくれました。
思いがけず日本から義父と一緒にやってきた名も知らぬ神戸のかたからの手紙。
それは一人暮らしをされている八十三歳の畠山さんというかたからでした。戦病死でご主人を亡くされ、満州から引き上げて
こられ苦労されたことや、四国八十八ヶ所巡拝や趣味の短歌のことなどご自身の近況が書かれてありました。
私が今はベルギーに住んでいること、手紙は転送されこの夏受け取ったことを書いて絵葉書を出したところ、返事をいただき
(びっくりしました。差し出しシールの小さな住所を頼りに八十三歳のかたからエアメールを頂くとは)その後やりとりしています。
お仲間と歌集を出されたりしてお忙しく暮らしておられ まだまだやりたいことが沢山あり、出来ることには挑戦して
いきたいとおっしゃる畠山さんの前向きな姿勢は「高齢になることは分かっていたのにその中に身を置くと戸惑うことが多く
「人生終わるまで学ぶことばかり」の言葉とともに 誰もが年を重ねていく中にあって、人生の大先輩として勇気と希望を感じます。
また畠山さんご自身の満州での体験などをエッセイに書かれ本を出されたそうです。
(『ひとりの楽園』文芸社 畠山久米子著)よかったら読んでみてください。
(図書館でリクエストすると購入してくれます。私は残念ながら読んでいませんが)

 もう一通は以前 お雛さまカードを送ってくださっていた方へ送っていた「ふれあい通信」に書いたことがありますが、
平成12年にカードを受取った神戸の八幡さんからお礼状が届きました。これをきっかけに、カードを届けてくれたボランティアを介し 
ご本人のお宅を訪ねお会いしたことがあります。その八幡さんからのお便りでした。
 じつは八幡さんにお会いしたときのことで忘れられないことがあります。
 初めて新聞で呼びかけてたくさんのお雛さまカードを送ったその夏、カードを作ってくださった人たちに現地の様子を伝えるため 
仮設住宅を訪問した時のこと。話をうかがったかたは家も職場も全壊し、仕事がなく苦しい生活を送っているとのことでした。
今、何が要るかといえば「米(食料)」とのこと。千葉に帰ってから、そのかたに話をうかがったお礼の意味も込めて
「困っている方々とわけて食べてください」と段ボール箱に食品をつめて送りました。

 後日、突然 忘れた頃にその人から電話があり、そのお礼と「実は財布を落としてしまった」ということで、ハッキリとは言われませんでしたが 
お金に困っているので貸してもらえないかという話でした。わたしには 出来ることと出来ないことがあって、これは出来ないことだと思い、
言い繕ってお断りし、相手もわかってくれた様子でしたが 電話を切った後、悲しい気持ちと断ったことへのこだわりで何ともいえない
気持ちになりました。そのようなことは初めてでしたので そのことに対する当惑と その当時仮設住宅での孤独死(それも餓死に近い形の)
が問題になっていたのを知っていただけに 即座に断ってしまった判断がどうであったかと自己嫌悪にも陥りました。
当時、関東に住んでいても何か出来ることをとお雛様のカードを送る呼びかけと、それとはべつに災害時の公的援助を求める活動
にも少しですが参加していました。カードを送って被災したかたに心を寄せて励ますことは出来ても 生活再建のためのお金を出すことは、
たとえその困窮を目の当たりにしても 私個人ではどうすることもできないと思っていたからです。けれど、その電話のことは 
それからもずっとわたしの心にひっかかっていました。私は未熟な人間で そういうことに対して対応(相手に対しても 自分自身にも)
出来ないくらいであれば少しでも何かしたいなどと思うのは間違っているのではないかとも思いました。
 八幡さんにお会いしたとき、この話をしたのです。すると八幡さんは「それは その人がよくなかった。あの当時は皆つらかった。
すまんかったね」と謝られたのです。私はその言葉にとても驚き、胸がいっぱいになりました。当人ではなく別のかたから、
そんなふうに言われるとは思いもよらないことでしたが、その言葉で 私の胸の奥にあったわだかまりと小さな痛みが消え、
なにか手当てをしてもらったような気がしました。
 そして、そのことが今の私にはとても大切な思い出になっており、何もしないでいるよりは やってみて得たものは大きかったと
つくづく思います。今もこうしてお手紙をいただくと、あの日の気持ちを思い出し、いい経験をさせてもらったと、八幡さんにはもちろん 
あの電話をくれたかたにも 呼びかけに応じてお雛様のカードを送っていただいた方々にも、そして過去の自分にも感謝の気持ちが湧いてきます。

 この夏このことを思い出したとき はっと気づいたことがあります。
数年前、それまでの歴史教科書を「自虐史観」とし、新しい教科書を「作る会」のことが話題になりました。なぜそれまでの
日本の歴史の書き方が「自国の歴史に自信が持てなくなる」とされるのかが、まず理解できませんが
(都合のいいように歴史を書き換えてもそれは自己満足を得るだけで、ことに戦争に関して美化するのは子ども達の将来にいい影響を
与えるはずもなく、どう言い繕っても犠牲になった人々がいるわけですから他国から見て通用しないことだと思います。
この広い世界にあって、ますます井の中の蛙になってしまうでしょう)
私は学生時代、社会科(地理・歴史)は大の苦手でしたので、自分の身近なところにまでひきよせて考えてはみませんでした。
けれど 歴史の詳しいところまでわからないにしても 過去日本との戦争などで犠牲になり、つらい思いや恨みを抱いている人や
その家族に出会ったとしたら・・・。
日本にいた頃には 深く考えたことがありませんでしたが ここベルギーに住んでみてはじめて ベルギー人に限らずいろんな国の人と
日常すれ違う中で、もしかすると いつの日かそういった人に出会うことがあるかもしれない、と思いました。これまでは 
過去の日本という「国」が行なったこととしてとらえていただけでしたが、先の八幡さんとのことを思い出し、そういう人に出会ったならば
(私自身はもちろん戦後生まれですが)日本人として謝りたいと思いました。
そして相手の気持ちに寄り添うならばそこから何かが生まれるものだと思います。
日本人として他の国の人とともに手を取り合って明るい明日を築いていきたい。これもひとつの愛国心といえるのかもしれません。
わたしたち、そしてこれからの次世代の明るい未来に向けて ひとりひとりが前向きに、自分なりに考えていくことが大切かもしれないと感じています。未来は遠い先のことかもしれませんが、過去から繋がっていて、そして確実に「現在」の先にあるものだと思います。

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