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恐怖への同一化


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  動物が恐怖へ遭遇すると、どの様な行動をとるでしょう。まず「逃げたい」「この場を立ち去りたい」という感情が真
っ先に誘起されるでしょう。そして逃げる事が「不可能」と判断された時は「反撃」を試みるでしょうすなわち眼前に
横たわる「恐怖させてくる物を排除したい」という感情が誘起されるのです。「窮そうかえって猫をかむ」という状況
です。そして、そのあいだ「助けがこないか?」という願望がずっと心の中を支配するのです。しかし反撃も不可能
助けもこないと悟った時「恐怖への同一化」という現象が起こります。それは恐怖させて来るものに同一化するこ
とで「恐怖心」そのものをなくそうとする精神活動です。動物は恐怖に長時間耐える事が出来ません。ストレス学説
からもストレスが長時間続くと疲弊してついには死に至ることが知られています。狼の狩は獲物をすぐには襲わず
群で獲物の後を執拗につけまわします。そうすると獲物はただ逃げているだけで肉体的だけでなく精神的にも疲弊
して、動けなくなってしまいます。そこを狼は襲うのです。すなわち恐怖に耐えるには限界があるという事です。そう
やって助けがこない状況から「恐怖への同一化」は起こるのです。この「助けがこなかった」という感覚はその後大
きな精神的拘りになるのです。すなわち人間の場合「人間不信」の基になるのです。それは他人の痛みなどは
無視しても良い、という強い価値観を生むことになります。「誰もが自分さえ良ければ良いと考えているに違いない」
と思いこむ事になりかねないのです。勿論「逃げたかった」「反撃したかった」という感情はなくなるわけではなく、潜
在意識に閉じ込めてしまいます。このように感情(欲求)が解消されないまま潜在意識に閉じ込められる事を「感情
の固着」また単に「固着」と呼びます。そうやって恐怖させてきたものの感情を自分のものにして、同じ物になろうと
して同じものになったわけですから、恐怖させてきた者と自分は「同じ」なのです。この様な現象を「自我境界が
薄弱である」と言います。精神的病にかかっている人は必ず自我境界が薄弱になっていますが、それは恐怖への
同一化によって引き起こされたものですから、そこだけにスポットをあてても、すなわち「自我境界をしっかりしな
ければならない」と指導してもなんら変化する事はありません。自我境界が薄弱になり「恐怖させてきた者」と自分
が「同じ者」になったわけですから「恐怖させてきた者」に対する攻撃は自分に対する攻撃と同じ物になるわけで
「恐怖させてきた者」を守ろうとします。
アメリカであった話ですが「虐待」の通報をうけその家に警官が出向いたら、そこの子供達が必死に母親をかばった
という話があります。またドメスティックバイオレンスで暴力を受け続けていた女性が暴力を振るっている男性をかば
うのも稀な現象ではありません。一旦「恐怖へ同一化」してしまうと、本人は自覚する事が非常に困難になります。
あたかも魔法にかかったかのようになってしまいます。そして、それと気付くことはほとんどありません。さらにここ
から抜け出し「自分の感情」を取り戻す事は至難の業です。何故なら「自分に戻ろう」とすると当時の恐怖が蘇って
来るからです。だからもともと怖がりな人達は、誰かに恐怖を与えれば自分を守ってくれる、という実感があるため
に、他人を脅かして怖がらせるのです。すなわち
怖がりな人ほど怖いが故に他人を恫喝します。
他人を怖がらせ、自分に向かってこないようにすると同時にあわよくば「恐怖の同一化」を起こして自分の配下に
出来るかも知れない事を、そして他人からの攻撃から自分を守ってくれるかもしれない事を期待するのです。勿論
もともと怖がりな人というのは「生まれ付き」という意味ではありません。自分も恐怖へ同一化してしまった人達です。
すなわち「自分がされた様に」他人に無自覚にしてしまうのです。それを子供にする場合「連鎖」が起こるのです。
この現象は人間社会のあらゆる所で観測可能です。恐怖政治というのもその一つといえるでしょう。
外からみて国民が大変抑圧されて可愛そうだ、と思って助けようとすると、予想に反して国民から猛反発を
くらってしまう事はありえる事なのです。すなわち
人を怖がらせる人とは「とても臆病な人」
とも言えるのです。この現象は
世界中の各家庭に「普通の事」として広範囲に行なわれています。すなわち「人間は天敵」と潜在意識に持っている
現代人(絶滅種)は実は「子供が怖いのです」(子供も人間だから)子供の存在そのものが怖いといっても過言では
ありません。子育て放棄や子殺しはその為に起こります。意識では「可愛くって可愛くってしかたがない」と思っている
場合はこの潜在的に「子供を怖がっている感情」を無理に否定しようとしている可能性が大きいのです。この様な現
象を「反動形成」と呼びます。後ほど説明する予定ですが、その場合「受動的攻撃」を使って自分に取り込もうとしま
す。このように「潜在的」に「子供を恐れて」いますと、子供を脅かし、恐怖を引き出し自分に同一化させることで安心
しようとするのです。これが「しつけ」と呼ばれるものの潜在意識的解釈です。前意識的には「子供を社会の規範に合
わせるように育てなければ自分が責められる」という恐怖でしょう。すなわち「常識」と呼ばれる社会の目に恐怖への
同一化をしているのです。このようにして「他人の感情」(親の感情も自分自身ではないという意味で他人の感情で
す)
を自分の中に取り入れ、それを自覚することなく「自分自身の感情と」と錯覚させられている人達の事を「自我喪
失」と呼びます。私の見積もりでは(人間の行動分析でその潜在意識を解釈する事で出てくる概算です)人類の90
%以上は「自我喪失」していると思われます。勿論親もその親からしつけをされて同一化していますから(本人に自覚
はありませんが)
結局は遠い祖先からの感情を引き継いでいるという事でもあるのです。遠い昔には沢山の争い(殺
し合い)があり「憎しみが憎しみを生む構造」が出来ていますから「しつけ」で継承されるものの主な感情は「憎しみ」
にほかなりません。一人の人間に必ず二人の親がいます。という事は四人の祖父母がいることになり20代も前には
100万人以上の祖先がいることになるのです。ちなみに25代前には3,300万人以上の先祖がいる事になります。
まぁ当時それほど人間もいなかったので「同じ人」もかなりいるんでしょうね。すなわち同じ地域ではほとんどの人が
同じ先祖を持っている可能性が高いという事でもあります。言い直すと「同じ憎しみ」を持っているだろうという事で
す。勿論自我喪失と「不正の出来る人」はイコールではありません。しかし「不正の出来る人」は確実に「自我喪失」
しています。またまた私の概算で申し訳ないのですが「自我喪失」している人の中で「不正の出来る人」の割合はど
うやら50%くらいではないか、そして残りは「自我喪失」していても「不正の出来ない人」の様に見ています。
自我喪失とは
「自分自身の感情を潜在意識に閉じ込めて他人の感情を自分の感情と信じて疑わない人の事」
です。

そして成熟した競争社会は成熟すればする程その主要な部分、すなわち社会を動かす主要な部分にいる人達は
「不正の出来る人達」で占められていきます。勿論それを良い事とか悪い事と受け止めないで下さい。「ある物をあ
る」と認識していく上で重要なことなのです。彼らはすべて「先祖から引き継がれた価値基準」(すなわち既存の知
識)でしか判断出来ませんから新しい状況に対応する事は不可能です。その為状況の変化を把握しきれずに社会
は硬直化して、さらに腐敗は進み国民の負担は増大し、彼らの「誤った判断」で社会を崩壊に導いてしまいます。
この事は歴史に詳しい人でしたら、一つの社会が崩壊して次の社会へ移行する寸前の状況、すなわち崩壊寸前
の社会がすべて同じ状態である事を知っていると思います。
また現代でも大きな会社がつぶれる時、その寸前の状況からも判断が可能です。すなわち「頭の堅い上司」
がどうもあやしげな行動をしている(私服を肥やしているらしい(腐敗))状況で新しい事への挑戦を「自分に責任がく
る」という恐怖から「失敗したらだれが責任をとるんだ」というお決まりのセリフでことごとく否定して「現状維持」を指
示しているために、ついには会社が立ち至らなくなって(硬直化)ついには倒産という事になります。しかし倒産する
と彼らはさっさと逃げてしまう。という構図が十分考えられるのです。こういう場合良く「責任論」が言われますが、彼
らにそれを理解する能力はありません。すなわち「決められた事を決められた通りに正確に実行しただけ、社会が
変化したのが悪いのであって、どうしようもない事だったのだ、だから我々にはなんら責任はない」と思っています。
「自我喪失している」という事は「親に忠実」だった、そして「恐怖で同一化」していますから「親を丸ごと尊敬してい
る」という特徴を備えています。しかし同時に「下に過酷」という「いじめっ子」の性格も含有しているのです。さらに
「外観を整える」事に掛けては天才的才能を発揮します。この性格は上から扱うのにとても使い勝手がいいので、ど
うしても上から見ているだけでは「高く評価」してしまう傾向があります。その中に「腐敗、崩壊の種」が内包されてい
る事までは見抜く事は出来ないので重く登用してしまうのです。そうやって徐々に組織の上層部は「不正の出来る人」
で埋められていくのです。そして国だけでなくどんな組織でも崩壊すれば多大な犠牲が出てしまう事になるのです。
最も崩壊する前からそこそこ犠牲は出てますけど。
「親をまるごと尊敬する」と言うところに引っかかった人が居ると思います。「親を尊敬してはいけないのか?」と、そ
れは「善悪を抜いて考える」と言う所を、ある程度納得してもどうしても出てきてしまう感情でしょう。だから「悪い事」
とは言っていません。本来「尊敬」とか「感謝」と言うものは個人的感情で、他人から強制されて生じるものではあり
ません。「尊敬出来る行い」をしていれば強制されなくっても「尊敬」してしまうでしょう。しかし恐怖への同一化の場合
「尊敬」や「感謝」が強制されているのです。潜在意識を自分で知る為の最も簡単な方法は「自分が最も嫌いな人
を思い浮かべて下さい。その人があなたの潜在意識です」というのがあります。すなわち「尊敬せねばならない」と
いう強制で「尊敬している」場合。親を尊敬していなかったり、親に感謝していない様に見える人を見ると「むかっ!」
と来てしまうのです。ですから自分の親を尊敬していて、なおかつ他人に「親を尊敬しなさい」とか「親に感謝しなさ
い」と指導する人は、恐怖へ同一化していて「自我喪失」していると見て差しつかえありません。ようするに「恐怖へ
同一化」している為に「親をかばいたくなる」という意味です。

フロイトが自我構造を3種類に分けています。この分け方が便利なので、名前だけを拝借します。すなわちスーパー
エゴとエゴとエスに分けるのです。このスーパーエゴが恐怖で同一化することで自我と思い込まされているものです
ですから、このスーパーエゴは「善悪の価値観」で出来ています。「・・・・してはいけない」「・・・・しなければいけない」
という禁止、強制の感情のことです。勿論「善悪の価値観」ですから必ず矛盾します。その為禁止、強制の感情に優
劣をつけているのが普通です。すなわち矛盾した価値観が出てくると、どっちを優先するか?という判定をしているの
です。例えば「不正をしてはいけない」という価値観と「競争に勝たねばならない」という価値観で、競争に負けそうに
なると矛盾が生じてしまいます。そこで「不正をしてはならない」という価値観を優先するのが「不正の出来ない人」
すなわち「負け」に対する恐怖心より「不正をする事」に対する恐怖心の方が勝っているという事になります。その逆
が「不正のできる人」という事になります。又価値観が矛盾していますから、それぞれの価値観を切り離して保存す
る、という方法もとられているようです。例えば「人の上に立たねばならない」という価値観と「差別してはならない」と
いう価値観はもともと矛盾しているのです、ですから差別的発言をしていても、それが「差別的発言」である事に「気
付かない」という現象が起こったりします。あるいは「それは矛盾していない」という理屈を作って他人を説得しようと
する「否認」が起こったりもします。これらの事は事象をつなげて考えるという科学的思考を著しく阻害します。
応用問題が苦手というのは実はここに起因しているのです。

一方エゴですが人間が種々の環境で生きていく知恵はエゴが持っているのです。他人の感情を読み取れる能力と
か、理解力考察力、観察力、判断力などはすべてこのエゴがもっているのです。そしてなにより「平等意識」を持って
いるのです。しかし現在ではエゴに「悪い物」というニュアンスが付着してしまっています。それは自我喪失している
すなわちエゴがない学者や指導者達がエスと勘違いしたからだと思っています。というかエゴのない人に「エゴ」に
ついて百万遍解説しても理解する事は不可能でしょう。エゴは洞察力もありますから為政者の不正など造作もなく
見破る事が可能です。ですからそれを怖れる為政者達が寄ってたかってエゴを悪者にしてしまったのでしょう。
すなわちエゴをなくして目上に従順になる事を推奨しているのです。勿論平等等もってのほかです。このことを私は
「無能化教育」と呼んでいます。「無能化教育」とは「自分の考え」「自分の意見」と言うものを「恫喝」によってことごと
く否定し「目上の意見」を押し付ける事です。最も典型的なものが「スパルタ教育」と呼ばれるものです。スパルタ教育
というのは、スパルタという戦乱に明け暮れた国が優秀な戦士(上に従順、敵に対しては残虐)を作り出す為に使わ
れた方法です。そこには個人の尊厳などはみじんもありません。個性などはもってのほか、というのは現在でも「戦
士の個性」はほとんど無視されている事からも想像がつくでしょう。そしてスパルタ教育の恐ろしさはアリス・ミラー
がヒットラー等の独裁者の成育史を例にあげて解説しています。人々が無能化すれば為政者は安泰、すなわち
「沈黙の壁」がつくられ、縦社会を維持するのに都合が良いと思われるからです。勿論長い時間安泰でいられるわけ
はありませんが、とりあえず不正がばれずに済みそうだからでしょう。私が自我喪失と呼んでいる自我はこのエゴ
の事です。すなわち正確には「エゴ喪失」です。このエゴこそがまさしく「自分自身の感情」なのです。

そしてエスとはフロイトは人間の原始的動物の部分と呼んでいますが、私はこれこそが恐怖させられた時に起こった
「反撃心の固着」の事だと思っています。すなわちスーパーエゴが出来てしまった為エゴを救出する為に出来てしまっ
た感情と解釈しています。すなわちこれは完全にスーパーエゴに対する反抗心で出来上がっているのです。それは
「縦社会」を破壊したい感情ですから為政者というか勝組みがいい顔するわけがありません。自我喪失している人は
「自分自身の感情」と聞くと必ずこの「エス」の事を言います。ですから改めて言い直すなら「自我喪失」とはスーパー
エゴとエスだけで自我が構成されている人のことです。勿論エゴが全くないわけではなく、幼児の所で成長が止まっ
ています。彼らが一様に性的な事に未熟なのはその為です。

ここで少し話が飛びますが「マズローの欲望の5段階」という仮説に検証を加えて見ましょう。
マズローという人が、人間の欲求には段階があって、最も基本的な欲求が満たされて初めて次の欲求が出てくると
言っています。この事自体には異論をはさむ余地はないように思えます。が彼の提示した欲求の段階は
1.生理的欲求
2.安全への欲求
3.所属・愛情欲求
4.承認欲求
5.自己実現欲求
と言っています。しかし私は彼が2番目にあげた「安全への欲求」が最優先されるのではないかと思っています。
すなわち「感情的」に「安全」が確認されていないと、生命力そのものにも大きな障害が生じるからです。昔のある王
様が、生まれたての赤ちゃんを母親から取り上げ「愛情のない所」で育てた事があるそうです。その目的は「王に忠
実で残虐な兵士」すなわち戦闘マシーンを作ろうとしていたのでは、と推測されます。それだけ母親のもとに長くいた
人間程いう事を素直に聞かないし、戦闘に向かない人間が出来てしまうと思ったからなのではないでしょうか?しか
しこの試みは見事に失敗しました。何故なら赤ちゃんは全員死んでしまったのです。この事からも母親の愛情をいっ
ぱい受け我儘に育てれば「戦争に向かない健康な人間」を作れるという事がわかると思います。また「摂食障害」とい
う精神的病もあります。中でも「拒食症」と呼ばれる食に関する生理的欲求が薄弱になりついには死にいたる病はよ
く「ダイエットをしすぎた為」という安直な判定をする人もいますが、どうも納得がいきません、私は潜在的に「安全へ
の欲求」が満たされなかったと捉えています。客観的「安全」ではなく本人が感情的に「安全」と感じていなければな
らないのだと思うんです。すなわち欲求の最も優先される物は「安全への欲求」であろうと思っているのです。そして
3にあげられている「所属愛情欲求」は「安全への欲求」とまったく同じものだと思います。しかし一つ大きな問題
があります。それは前にも少し触れましたが「性欲」の問題です。安全が脅かされると実は「性欲」が高まってしまう
のです。私はこの性欲を「異常性欲」と位置付けます。すなわち生命に危機が訪れると「個体の保存」より「種の保
存」の本能の方が優先されるのではないか、そしてそれが動物の基本本能であろうと解釈しているのです。すなわ
ち「正常な性欲」と「異常な性欲」(言葉が悪いと思うなら「危機的性欲」でもかまいません)とを分けて考えた方が良
いと思うのです。人類は「人間を天敵」と認識しているなら、基本的に「安全への欲求」が満たされていないので、ほ
ぼ全員「異常性欲」が出ているんだと思っているという意味でもあります。すなわち「はぐれ虎」と同じ状態になって
しまっている。という意味です。この認識なしに現在の人類が「正常」という視点で見ると「異常性欲」もただの「生理
的欲求」になってしまうので、マズローさんは人間の性欲の強さを観察していたが為に「生理的欲求」を一番にあげ
てしまったのではないか、と私は推測します。現在の人間社会では「安全への欲求」は中途半端にしか満たされ
ていませんから、まだきちんと段階を付けれる状態ではないと思っています。すなわち「自己実現欲求」もはたし
て生理的欲求より下なのかどうかはまだ理解出来ないかもしれない、と思っているのです。それは「安全への欲求」
が十分満たされて初めて理解出来るのではないだろうか、という意味でもあります。あるいは「承認欲求」も「自己
実現欲求」も「安全への欲求」の変形したものと見る事も可能ではないかと思うからです。

話が少しそれましたが「自我喪失」している人間は潜在意識に大きな「恐怖」を抱いている故に「性欲」の異常昂進
が見られるのです。特に「不正のできる人達」はその行動生態からかなり大きな不安を抱いたまま生活していると
観測できます。すなわち「安全への欲求」がほとんど満たされていない、と思われるのです。ですから成熟した縦
社会の頂点付近にいる人達は我々が思っている以上に「性的犯罪」も含めた「性的不正」が行なわれていると推測
出来るのです。勿論分厚い「沈黙の壁」だけでなく「虚言の壁」に守られて、ほとんど表面化する事はないでしょう。
すなわち「正常な性欲」はエゴに分類出来るが「異常性欲」はエスに入るのではと思っています。
整理してみますと、人間は本来「横社会」の感覚を持って生まれてくる、しかし現実の縦社会に適応させようとして
赤ちゃんの時から「怖がらせて」安全に対する欲求を満たす事なく恐怖の裏づけを伴った「スーパーエゴ」という善悪
の価値観を植え付けてしまった為に、それに反対する安全を求める感情としてのエスが出来てしまう。という事だと
思います。そしてこのエスが人間社会に横たわる様々な問題を引き起こしているのだろう。そしてこれを力ずくで
無くす事は不可能、すなわち「力ずく」と「反抗」は表裏一体のものだからです、だから元々のスーパーエゴを作らな
ければエスも出来ない、という事です。例えば良く人は「反抗期」という言葉を使います。しかし「力ずく」でいう事を
きかそうとしなければ「反抗」という現象そのものがないわけです。「力ずく」にはかならず「反抗」が出てくるのです。
そして、その反抗心を抑圧すると人間も社会も非常に不安定になります。ちょっとした事がきっかけで「反抗心」が
暴走するのも不思議な事ではありません。以上の様な事から
自我喪失している人ほど心は安定していない
と言えると思います。すなわちエゴだけの人間ほど心が安定して健全な社会生活が出来るという事です。

私があるテレビで見た話ですがプチ家出をしている少女を母親と対話させようと企画して両者を合わせて話し合いを
始めさせたのですが
娘 「お母さんは私のこと何にも解ってくれない」
母 「だってあなたの言いたい事は結局わがままをしたい、っていう事だけでしょ」     
娘 「すぐ、そういう事いいだすからむかつくんだよっ!」
で終わりになってしまいました。(^^)
実はここにはとても深い内容があるのです。「わがまま」とは漢字で書くと「我儘」すなわち「我」の「儘」自分自身という
事ですよね。「エゴ」そのものなのです。すなわち縦社会では「エゴ」を嫌うのと同じ様に「わがまま」を嫌ってしまうの
です。しかし娘も「縦社会」の基準しか教えてもらっていませんから「わかってもらえない」ものが「なんなのか?」を
言語化する事が出来ないのです。「自我」を否定されるという事は人間にとってとてもつらい物でもあるのです。しかし
大人になるにつれ「縦社会の常識」に染まっていくと「わがまま」をあきらめなければならなくなってしまいます。
勿論その為には「攻撃心」を潜在意識に抑え込まなければ成らなくなってしまいます。どうしても「人を責めたくなる」
というのがこの攻撃心です。思春期のすなわち現在「反抗期」と呼ばれている子供達は一様に「親はなにも自分の事
をわかってくれない」と思っていますが、それが何なのかを理解する所までは行っていないのです。それは
「自我を成長させたい」という本能からの叫びなのです。
それは同時に「不安」から抜け出し「安定したい」という事でもあるのです。すなわち「安全への欲求」です。

仏教の話を聞いていくと面白いものにぶつかります。お釈迦様が菩提樹の木の下で悟りをお開きになった時「奇なる
かな奇なるかな・・・」で始まる一節があります。ちょっと難しい言い回しなので、ぶっちゃけます。もっとも元々が日本
語のわけがないので、現代語で意訳しても問題はないでしょう。そこではこう言ったと言い伝えられています。
「あれっ!?不思議な事だなぁ!生きとして生けるものすべてが如来の知恵と徳を持ってるんだ!ただ執着と妄想
がある為に気がついていないだけなんだっ!」と。そこで人間が元々持っているであろう「如来の知恵と徳」の事を
「仏心」といいます。「徳」というのは「悪徳」という言葉があるので、多分「行為」の事であろうと私は思っています、
「知恵」とも対比できるし。となると確かに自我喪失している人には信じられない位、難しい概念かも知れませんが
どうも私が考えている「エゴ」と同じ物のような気がします。お釈迦様に聞いて見ないと真実はわかろうはずもないの
ですが。「仏心=エゴ」でもなんら問題は発生しません。ちなみに「衆生」というのを私は「生きとして生ける物」と解釈
しましたが、それは生物学的に見てもアメーバーの様な単細胞ですら「自分自身の感情」すなわちエゴで生きている
からです。それが生命を営むという事でしょう。アメーバーは誰に命令されるわけでもなく「自分の感情」で食物を探し
危険を回避して生きているのです。すなわちエゴとは「生命力」そのものといえるのです。
そこで私が言いなおすとこうなります。
「あれっ!?誰でもエゴはあるんだ、だけど恐怖の為に育っていないだけなんだ!」
すなわち「エゴ喪失」といっても本当にエゴがないわけではないのです。自分で意識できなくなっているだけなの
です。恐怖を取り除くが出来さえすればエゴを育てる事は可能です。まだ希望はあります。
しかしそれはかなり大変な事でもあります。


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