青少年有害社会環境対策法案について

2003年4月  大枝柾彦

表記題材ついて、意見を求められたので、私なりに意見をまとめてみました
法案の詳細については、あまりよくはわかりません。まぁテレビのニュースの範囲ないでしか
理解していないと、思ってもらっても結構です。
しかし、社会の流れを「人間の心」の観点から概観していると「そういう動き」が出てくるのは
当然な事であろうとも思ってもいます。

戦争のない状態が続くと、そして子育てや教育が戦争状態またはそれ以前と大きな変化がない
かぎり、無意識のうちに戦闘要員として育てられてしまいますので子供達は「敵(悪)をやっつける」事こそ
最も「かっこいいこと」という「感覚」が育ってしまいます。
しかし現実に戦争もなければ、悪者もいないような平穏な日常では、想像を絶する位の「欲求不満」が
起こってしまうのです。そしてなにより「性欲の昂進」が起こり自分では何をどうしていいのかわからないような
「もやもや」を経験せざるをえなくなってしまうのです。(この事に関しては「不安リビド」に関する私の提言を参照にしてください。)
この「敵を殲滅したい、暴力的欲求」と「異常な性欲の昂進」が青少年問題の基本的原因に他なりません。
いや、社会問題のすべてに関わっているとも云えるでしょう。

「敵を殲滅したい暴力的欲求」は、まず敵をつくりださなければなりません。それは「先生」であったり「警察」であったり
「おやじ」であったりするかもしれません。それらの「敵と戦う」エネルギーは戦争が起これば合法的に発散する事が
可能なのです。一方「敵を殲滅したい暴力的欲求」を抑制して、というより、肉体的精神的「力」が不足している為に
行動化出来ずに抑えざるをえなかった子供達は、暴力以外の「力」を求める事になるでしょう。それが「学力」であったり
「知力」であったり、「財力」であったり「権力」であったり、するわけです。
ですから無事これらの力を獲得した人達もやはり「敵を殲滅したい欲求」はまったくかわりがないわけです。
このような人達は「排他的集団」を形成して、その集団の外を「敵」とみなすことで「安心」を得るわけです
勿論「敵」に対して「合法的」「策略的」攻撃を仕掛ける事になるのは必然です。
しかし、どんなに合法的に闘っても「自国民」では欲求は必ずしも解消出来ません。特に現在のような
人権が尊重される社会では、彼らの攻撃は必ずしも有効にならないので、欲求不満がつのるでしょう
そこで潜在的に時には顕在的に「他国民」と戦う「戦争」を渇望してしまうのです。
勿論そんな自分の感情を生で認めるわけにはいきませんから「合理化」が必要になってくるのです。
いわく「敵が攻めてきたらどうするんだ」・・・・・・
こんな人達はなにも日本だけではありませんから、実際に起こってしまう可能性はとても大きいのです。
いや、過去の歴史をひもどけば、これの繰り返しと言ってもいいのではないでしょうか?
しかし「戦争」はそんなに簡単には起こせません、特に女性を中心とした反対意見はなにも現在だけでなく
どの歴史の断面を見てもかなり強烈に存在しています。
そこで彼らはこれらの「反対意見」を封じ込めるためになにやかやとその手にした財力や権力を
使って画策する事になるのは必然です。

前置きが長くなりましたが、表記の法案とは、まさに「国民を黙らせる」事を前提にした「戦争」への第一歩
と私は見ています。すなわち「統制」とか「検閲」とか「守秘義務」とかは、彼らが最も手にしたい権利だからです
その合理化に前述の「青少年の犯罪行為」がかっこうの材料になるわけですから、反対している人達が
そこを「是認」(すなわち、青少年が「悪事」を行う行為は抑制しなければならない、そして彼らを犯罪に駆り立てているのは
悪徳商法、または悪徳マスメディアだというところ)してしまうと、かれらの思う壺にはまってしまうでしょう。
すなわち、マスメディアや種々の悪徳商売は「需要があるから供給する」という図式からまったく
それていないわけで、けっして「害毒」なわけではないのです。需要があるかぎり、どんなに規制しても
影にかくれてしまうだけで、決してなくすことはできないのだ、という事を充分に理解するべきではないかと思っています。
一時「援助交際」というのがメディアで騒がれ「買春法」がつくられて、すっかりメディアから忘れさられていますが、
私は「なくなった」とは思えません、いな闇に隠された分だけもっと悲惨になっているのではないかと推測
しています。麻薬の問題を見てもその事は良くわかるはずです。「需要をなくさない限り無くなることはありえない。」
という「基本的考え方」を推奨します。

結論的にいえば「青少年」に対する最も有害な「社会環境」とは

「人間には本能的攻撃欲求があり、それを抑える理性を育てなければならない」

という「常識」こそが最も有害だと思っています

乱暴ながさつな男の子達はほぼ100%間違えなく「しつけ」の美名のもと親に乱暴に扱われています。
そして「潜在期」と呼ばれる小学校時代以前は「体力的」にも「知力的」にも大人にかなわないので
大人が「いうこと」をきかそうとすれば「おとなしくいうことをきいてしまう年代」でもあるのです。
しかし、このとき「想像を絶する」反発心が「人間不信」を育て「他人のことなんてどうでもいい」感覚を
育ててしまうのだ、それがすべての社会問題の「根」である事を沢山の人達が「知ること」から
始めなければならないだろう、と考えています。

再度確認します

「人間の人間に対する攻撃欲求は、決して本能ではありません!!」

勿論、感覚的に納得出来ない人達もいるでしょう、又現実に人を襲っている人達をどうしたら
いいのだ!、と思う人達もいるかも知れません。
大きなところでは国際的テロの問題もあります、これらの人達にどう対処しろというのだ!
という声もきこえるかも知れません。
私は、これらの問題の解決方法として、現時点の方法を是認せざるをえないのも充分知っています。
でも、出来れば法案等を強化するのではなく、現行法の枠内で出来るだけ対処してもらいたいし
抑圧という手段は時には有効かもしれないが、それが最終手段ではないことをいつでも念等に
置いておいてもらいたい、という事なのです。

有史以来の人類は人間の人間に対する攻撃欲求は本能だ、という仮定のもとに突き進んで
来ました。しかしそれで問題が解決したためしがないのだ、という現実をまず見ていきましょう。
それ以外に方法はないのか?という問題提起が必要になってきているほど
現在は行き詰まってきているのではないでしょうか?

今、攻撃欲求を「本能だ」という仮説があったとしましょう。そして「本能ではない」という仮説があったと
しましょう。

この二つの仮説から導きだされる結論は、まったく逆のものになるのだ、と言う事なのです。
「本能だ」という仮説から導き出せるものは「抑圧」です、そしてそれしかありません。
これを突き詰めていくと、完全な縦社会をつくらざるを得ないし、そこからはみ出た人間を
抹殺せざるをえなくなるのです。そして「表面的平穏」を目指すことになるでしょう。
しかし、この方法は、前にも述べた通り「限界にきている」と私は見ています。

一方「本能ではない」という仮説から出発した理論は「攻撃欲求を生み出さない育て方」
という、とても気の長い話に到達してしまうのです。気の短い人にはとても待ちきれない話かも知れません。
しかし、今までの歴史の中で試行されたことのないこの仮説からの実行は現在の閉塞状態から
抜け出すために、十分魅力的なものではないでしょうか?

また精神医学が発達するにつれ、そこからの人間の心にかんする情報はどうやら
「本能ではない」という方向を向いているように思われます。
ですから「人間の人間に対する攻撃欲求は本能ではない」という前提でみなさんに
考えて貰いたいのです。

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