[652] 日記に書く勇気がないので(^^)

 

なんていって、この掲示板の方が表玄関かも、なのに(^^)。やっぱりわたしは今回のテロ事件で多少のトラウマを抱えているようなので、自己セラピーを兼ねて今の気持ちを書いてみました!
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死について語るのはとても勇気がいる。とくに、私のようにこれといった過酷な体験をしたことのない者が語ることではない、とも思う。それを押して、批判されることを覚悟で言ってしまおう。
死後の世界については誰にもわからない。だから、自分の好きなように思っておけばいいともいえるかもしれない。わたし自身がこの世で生きやすくなるために思っていること、というのは、人間は死んだ瞬間に自分の人生のすべてを理解するのだろう、ということ。つまり、今わたしたちが無意識の世界とかいっていることも、自分だけじゃなくて、すべての人々の無意識の世界も、映画でも見るようにわかってしまうのだろう、ということ。無意識の世界は”魂”の世界とはちがって、あくまでも”脳”の機能が関っている部分だから、脳という肉体の部分が消滅したら自我とのつながりも無効になって、まるで”自分”の身体の細胞のひとつが体験したかのような感覚でみえるのかもしれない。肉体のない世界に時間はないから、こんな“意識”の状態がどのくらいつづくのか、と問うのも無意味だろう。
つまり、自分の意識の上にあったことと、無意識下にあったこととの矛盾が大きければ大きいほどびっくりする、ということ。ただそれだけのこと。天国も地獄もない。ただわかってしまうというだけのこと。 現世での価値体系が通用しない世界に行くというだけなんだと思う。
死を語るときに何よりも私の心を苦しめるのは、幼くしてこの世を去る命なのだけれど、せめてもの慰めは、幼い命であるほど意識と無意識の矛盾がないであろうということです。こんなことを言っても、お子さんを亡くした親御さんの悲しみが少なくなるわけじゃない。それはわかっているのだけれど、死をとりまく悲しみは、純粋に、残された者のものであること、去って行った者のものではないことを思ったときに、少しは慰められはしないでしょうか。
同じ理由で、殺生をした人は現世的な理屈をどんなにつけても、それが通用しない世界に行ってしまうのだから、その落差に、殺された人の何倍も驚いてしまうのだろう。どんな形の戦争も、正当化できない世界なのだから。古今東西の宗教が殺生を諌めるのは倫理観からではなく、このことを言っているのだと思う。それが“大我”の世界なのじゃないだろうか。殺生するかしないかという行為よりも、その背景にあった自らの恐怖感――どんな理由をつけても無意識下にあった恐怖感が、おそらくは、何よりも巨大な驚きとして死後の意識に上ってくるのじゃないだろうか。そして、これは自死した人の場合も同じなのかもしれない。
今回のテロリストたちは死後の世界に対して“明確なイメージ”を植え付けられていたようだけれど、そんなものではなかったことを発見して無念だったろうと思う。9月11日のマンハッタンの空は、からりと晴れた青空だった。世界貿易センターに激突した旅客機を操縦していた人が、あのときふと美しい空にみとれて、「この空の中を飛び続けたい!」と感じて、そのまま大西洋に向かって飛んでいってくれていたらどんなに良かっただろう。しかし、そのような感性を持ち合わせることのできない思想に凝り固まっていたことが彼らの不幸なのだから、そして、その感性こそが、彼らが敵とみなして絶滅させようとしていたものだったのかもしれないのだから、不可能だったろう。

  明日死ぬとわかっていたら、今日一日をどんな風に過ごすか・・・それをいつも思って生きるのが、本当に生きることだとよくいわれる。こんな風に言うとデカダンな生き方だとか、刹那的、享楽的人生だとか思う人が多いのかもしれない。でも、無意識下の恐怖にがんじがらめになっているのでないかぎり、実際にはそうならないのじゃないか。テロ事件の後、ニューヨークでは結婚に踏み切る恋人たちが増えたというし、キャリアに忙殺されてばらばらだった家族が絆を深めているともいう。わたしも家の裏の林を訪れる動物たちへの愛しさを感じている。今も居間の窓から、初冬の枯れ木を赤い花びらのように彩る真っ赤なカーディナルの雄鳥が見えるが、これまで何百回と見ただろう何げない景色が心を打つのは、わたしの意識が変化したから、あるいは視点が変わったからにすぎない。
子どもが遊ぶように生きるのが良い、と言った人もいる。そんな怠け者になってはどうしようもない、と思うだろうか。でも子どもが何かに夢中になっているときは、けっして怠け者ではない。大人も顔負けのエネルギ―と集中力とひらめきをもって、何かに打ち込んでいるのじゃないだろうか。わたしたちはそんな体験を忘れてしまっているから、代償行為にあくせくして中途半端な満足感しか得られないのかもしれない。

人間はみな、好むと好まざるとに関わらず独自の世界に生きている。そのことに気づかず、他の人の世界も自分と同じだろうと勘違いしているだけだ。あるいは他人の世界を中途半端に理解して、自分の世界にベールをかけている人もいるかもしれない。自分の知らない世界もたくさんあるのだということに驚いた経験もあるだろう。まるで、多次元世界のように、自分がどこを見るかによっていくつもの世界が突然表出してくることに気づいたことはないだろうか。本当に、多次元宇宙はSFの世界じゃなくて、今、ここに、わたしたちの目の前に、自分が見ようとしたその瞬間に飛び出して来るものなのかもしれない。その中から自分の世界を意識的に選択して生きていく以外に、満ち足りた生き方はないように思える。そしてそれは、恐怖に突き動かされた選択でないかぎり、あるいは自分以外の人の選択に干渉しないかぎり、どんな選択でもいいのだ。
逆説的にいうなら、その選択があることを知る以外に、恐怖を遠ざける道はないのかもしれない。

01/11/12(月) 02:01 My

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